千葉好き地図鉄の雑記録

千葉県の鉄道などについて記します。

成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道②

成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道① - norehero-19の日記

の続きです。

 

謎の鉄道を分析する

①掲載の2万5千分の1地形図(1928年)を再掲

 

現代では全く想像のつかない、酒々井駅京成本線を繋ぐ謎の「貨物軌道」…。

 

旧版地図を見る限り、この鉄道は酒々井駅から分岐して北西方向に進み、京成酒々井駅宗吾参道方で成田方面に向かって京成本線に合流しているのが分かります。

 

ここで気になるのは、成田線鉄道、京成本線と「貨物軌道」が特種鉄道で描かれている点です。

鉄道・特種鉄道の地図符号(今昔マップの地図記号表示より一部抜粋)

 

成田線は、いわゆる”普通鉄道”を表す旗竿式鉄道であるのに対して、私鉄である京成本線が特種鉄道で表現されていることから、この旧版地図では「大正6年式地形図図式」のルールが適用されていると考えられます。

仮に6年式とすると、「貨物軌道」は上図から、一軌(単線)であったことが分かります。

また、6年式における特種鉄道の表す鉄道の範囲から、次のいずれかの性格を持っていたと推測できます。

  1. 普通鉄道(1,067mm)だが、動力が微少
  2. 普通鉄道ではない(1,067mm以下)
  3. 電気鉄道

「貨物軌道」の名前であるため、さすがに3は無いとして、どの軌間(1,067mmか1,372mmかそれ以外か)が採用されていたのか、気になるところです。

※そもそも、「貨物軌道」は酒々井駅にピッタリと接続していないようにも見えるが、縮尺の問題か?

 

 

航空写真に写っているか?

 

やはり気になるのは、航空写真に「貨物軌道」跡が写っているかどうかです。

ただ、1928年(昭和3年)前後が存在した期間だとすると中々難しい気がしますが、国土地理院の航空写真を使って探してみます。

 

2009年

2009年航空写真(地理院地図を加工)

今から14年前、2009年(平成21年)の航空写真です。建物の増減はあるものの、現在と大きくは変わっていません。

酒々井駅は白、京成酒々井駅は青い橋上駅舎が特徴です。

 

そして肝心の「貨物軌道」跡ですが、全く分かりません

成田線側も京成本線側も分岐地点にそれらしい分岐跡もなく、推定されるルート上にも土地形状の変化は認められません。

特に酒々井駅周辺は昭和40年代から団地造成が行われており、駅の東側は「東酒々井」、西側は「中央台」として開発され、区画整理された街並みとなっています。

この航空写真だけで「両線の間に線路が繋がっていた」なんて言おうものなら、完全に架空鉄道の話になってしまうほど、痕跡も何も残っていません。

 

なお、成田線京成本線を弧を描いて繋いでいるものが見えますが、これは水路であり、鉄道とは関係ありません。ただ、この水路の位置は結構大事です(!)。

1972年

1972年(昭和47年)航空写真(MKT723X-C10-3、国土地理院

1972年(昭和47年)です。現代から一気に飛ばしましたが、この時代でも廃線跡と分かる痕跡は見つけれらません。

酒々井駅を囲む土地が造成によって均されています。先ほどの水路より南側が開発範囲であることが分かりますね。

 

果たしてこの時代より以前に廃線跡は残っていたか?

 

 

1946年

1946年(昭和21年)航空写真を加工(USA-M44-A-5VV-289、国土地理院

 

戦後すぐの1946年(昭和21年)、米軍撮影の航空写真です。

ここまでもったいぶっておきながら今更ですが……

廃線跡、残っています!

 

 

「貨物軌道」跡は地図に描かれた1928年より約20年経った後でも残されていました。

分かりやすいように、「貨物軌道」跡を図示してみます。

 

1946年(昭和21年)航空写真を再加工(USA-M44-A-5VV-289、国土地理院

酒々井駅京成酒々井駅の間に、「白い土地黄色矢印)」があります。駅周辺はほどんとが山林や田畑、家屋である中で、とても目立ちます。

 

「白い土地」は酒々井駅から北西に向けて分岐しているように見えること、鉄道と同じ程度の幅であることから、廃線跡と判断して問題ないのではないでしょうか。

また、現代にも残る水路と「白い土地」は別々に存在していることから、水路が廃線跡で無いことも分かります。

 

ただ、不思議なのは、酒々井駅側には廃線跡が確認できるのに、京成本線側には「白い土地」が全くありません。酒々井駅から京成本線に向かう「白い土地」は、道路を越えた先で少しだけ現れたまま、ぷっつりと消えてしまいます。

旧版地図では「貨物軌道」は確かに京成本線に接続していました。しかし、この航空写真を見た限りでは、途中で諦めてしまった未成線に見えます。

 

 

「貨物軌道」の正体は何者か?

疑問を少し残してしまいましたが、旧版地図に描かれた「貨物軌道」は、決して架空鉄道ではなく、現実にも存在していたことを明かせたと思います。

しかし、この「貨物軌道」なる謎の鉄道の正体は不明のままです。

もしも現代に残っていれば、某所の「蒲蒲線」ならぬ、酒酒線として空港連絡鉄道成り得た可能性もあるだけに、なぜ無くなってしまったのか、その理由を次回は探っていきます。

 

成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道③ - norehero-19の日記

に続く。

成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道①

あけましておめでとうございます。
2023年もよろしくお願いいたします。

記事を書きかけのまま1年間放置状態ですが、今年こそ頑張って更新していきたい所存です。
というわけで、今回は「廃線」を一つ紹介。

酒々井駅京成酒々井駅

今回の舞台は、千葉県印旛郡酒々井町。難読地名として有名な街ですね。
そう、さけさけいしすいです。

酒々井町は1889年(明治22年)の町村制施行以来、一度も合併をしていない町であり、一度も村や市になっていない(発足当初からずっと”酒々井町”)、結構レアな自治体です。

そんな酒々井町ですが、町内には鉄道駅が4つもあり、高速道路のインターチェンジもあります。これだけインフラ力が強い町も珍しいのではないでしょうか。

そんな酒々井町の地図は↓↓

酒々井町地理院地図を加工)

町内には、総武本線南酒々井駅成田線酒々井駅京成本線京成酒々井駅があります。地理院地図では表示が消えていますが、町の北側には同じ京成本線宗吾参道駅があります。


次は、町の中心である酒々井駅周辺にズームアップした地図です。

地理院標準地図と最新写真(今昔マップより)

街の中心を国道51号線が南から北東に通っています。国道に対して西側に京成酒々井駅、東側に酒々井駅があります。酒々井駅周辺は区画整理されており整然としていますが、駅から離れると田畑が広がっています。

両駅は約700mほど離れており、お世辞にも乗換駅とは言えません。歩く以外でJRと京成を乗り換えたい場合、素直に成田までいくか、バスに乗る方法があります。


明治時代の酒々井

いつものごとく、昔の地図を確認していきます。

酒々井駅は1897年(明治30年)、成田鉄道の駅として開業しました。当時は南酒々井駅未開業かつ京成線未開通のため、町内は1駅のみでした。

1909年(明治42年)頃の酒酒井。今昔マップより

地図の中央に「しすゐ」駅があります。場所の比較は右図でできると思いますが、さすがに100年前だけあって現代とは大きく異なります。今回は鉄道メインの話ですが、成田街道の変遷を辿っていくのも面白いと思います。

戦後すぐの酒々井

次は戦後の酒々井です。

1947年(昭和22年)頃の酒々井

京成酒々井駅は、京成本線津田沼~成田花咲町間開通時に開業しています。1926年(大正15年)のことなので、当地図にはしっかり描写されています。両駅とも「しすゐ」表記なのが面白いですね。
明治の地図と比較して分かることは、成田鉄道の酒々井駅が人里離れた場所に開業したのに対して、京成酒々井駅は「中川」の中心地に駅を設けています。京成電鉄船橋津田沼、佐倉など、どの街でもより利用者が見込める場所に駅を設置していますが、酒々井も例外ではなかったということです。

昭和3年の酒々井

では、次に昭和3年発行の旧版地図を見てみてください。

国土地理院の2万5千分の1地形図(1928年3月30日発行)を一部切り取り

この図は、旧版地図から酒々井駅周辺を切り抜いたものです。前の地図同様、既に京成本線も開通しています。

ちなみにですが、オックスフォード大学のリポジトリから当地図を閲覧できますので、下記URLからどうぞ。正直、こっちの方がキレイです。
[Japan] Nimangosenbunnoichi Chikeizu -- [Japan] 二万五千分一地形圖 | Stanford Digital Repository



この地図、よく見てみると、省線酒々井駅から分岐して京成本線に接続する謎の鉄道が描かれています…。

まさかと疑う気持ちを抑え、もっと駅近くを拡大してみます。

前図をさらに加工

「貨物軌道」って書いてあるな…。



成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道② - norehero-19の日記に続く。

グランドサーキット・レースウェイとスカイウェイ

ディズニーランド

新津田沼駅の記事を書きかけながら、閑話休題的なディズニーランドの記事です。


我が家のホームビデオから、かつて存在したグランドサーキット・レースウェイとスカイウェイの写った動画を発掘したので、そのキャプチャ画像を貼り付けます。

ちなみに、入口とかの画像とかは全くない、低画質。たった4枚。
検索をすればもっと高画質な画像や動画を公開している方がいます。

以下全て1998年9月のものです。

スカイウェイ
f:id:norehero-19:20220207215549j:plain
スカイウェイ①

グランドサーキットから。スカイウェイは撮影日の2ヶ月後、1998年11月の終了。

f:id:norehero-19:20220207215622j:plain
スカイウェイ②

ガジェットのゴーコースターから。
シンデレラ城の手前は2017年10月に終了したスタージェット

おわり

新津田沼駅の変遷を探る①~S字カーブと跨線橋~

新津田沼駅の話

今回は新京成電鉄新津田沼駅」の前後区間がなぜ急カーブしているのか、という記事です。
新津田沼駅が現在の場所に至るまでの変遷を辿りながら、このブログお得意の航空写真を交えながら書いていきたいと思います。

新京成電鉄新津田沼駅南口

「S字カーブ」は鉄道連隊由来?

新津田沼駅といえば、駅と一体化しているイトーヨーカドー津田沼店(2024年9月閉店予定)が真っ先に浮かびますが、鉄道趣味の世界では、京成津田沼駅との間にある「S字カーブ」が有名ですね。
最近ではテレビや鉄道系のネットニュースでこのS字カーブの事が取り上げられることも多いです。

地図で見てみると、前原~京成津田沼間はSと逆S字が合わさったカーブでできていることが分かります。まとめて「Ωカーブ」ということもあります。
カーブの中でも京成津田沼駅付近が一番きつく、曲線半径120mだそうです。

新津田沼駅周辺(地理院地図を加工)

まずはじめに、新津田沼京成津田沼間の急カーブについてですが、この無理矢理な線形が生まれた理由として、ネットニュース等では帝国陸軍の「鉄道連隊」の旧線跡を再利用してると書いてしまっていることがありますが、実際のところ、それは半分本当で半分間違いになります。

本当というのは、新京成線総武線を跨ぐ跨線橋だけ鉄道連隊時代に架橋されたものなので、この跨線橋のみ鉄道連隊由来です。そして、間違いというのは、新津田沼京成津田沼間のうち、跨線橋以外は戦後に新京成電鉄が新しく建設した区間になります。
つまり、純粋に鉄道連隊に由来するのは、跨線橋のみということです。

新京成が戦後に建設したのがピンク線。鉄道連隊由来の跨線橋は赤丸。雑なのは許して。

より具体的にいうと、このS字カーブは跨線橋京成津田沼駅を線路でムリヤリ繋げるために誕生したわけですが、これだけだと新津田沼駅の位置が現在の場所にある理由になっていないので、新津田沼駅を取り巻く環境の変化を明治時代から順に紹介します。


明治時代

今昔マップを加工

1910年(明治43年)頃の津田沼駅周辺です。右の地図は「迅速測図」といって1886年明治19年)に帝国陸軍参謀本部陸地測量部が作成したものです。

津田沼駅の北側に鉄道連隊の「材料廠倉庫」、南側に「鐵道兵営」・「作業場」があります。南東側には総武本線(以下、緩急の区別をつける以外は総武本線とします)から分岐して千葉に至る「軍用鐵道線」が伸びています。

京成電鉄はまだ未開通でした。戦後にできた新京成電鉄も当然ありません。


この地図を見てわかることは、津田沼駅周辺はもともと畑しかなく、駅開業後も鉄道連隊の施設しかなかったということです。

津田沼」という地名は「谷津」「久々田」「鷺沼」の各村から一文字ずつを取った合成地名で、由来になった3村は駅の南側にあります。3村のうち、当時一番人口が多かったのは久々田村だったそうですが、駅に繋がる道路は谷津村に繋がっています。

なぜこの場所に津田沼駅が開設されたのかについて、確かな情報はありません。
ですが、一説によると、陸軍の軍人が軍用鉄道線の先にある騎兵連隊営や習志野俘虜収容所へ通いやすくするために駅を設置したようで、初めから集落のためだった訳ではないようです。この説が正しいとすると、駅利用者の多そうな久々田村に駅が近くない理由も納得できます。
もちろん、津田沼駅周辺は河川によって土地の起伏が激しいので、そういった地理的条件も考慮する必要があると思いますが。


話が逸れました。つまり、津田沼駅周辺には人家が少なく、鉄道連隊の演習場を展開できる広大な土地が広がっていたということです。
ここから現在の新津田沼駅が開業するまであと60年ほど。


大正時代

今昔マップを加工

1921年(大正10年)頃の津田沼駅周辺です。
京成電鉄が開業して、久々田村に現在の京成津田沼駅が開業しています。こうやって改めて古地図で確認すると、津田沼駅が何も無い中に開業したのに対して、京成津田沼駅は人口密集地に駅を開設したことが分かりますね。

津田沼駅に戻ると、津田沼駅北側(驛前)が発展しています。軍人を相手にした商店などで賑わっていたそうです。
鉄道連隊は1918年(大正7年)に2連隊制となり、津田沼は「鉄道第二連隊」となっています。

そして、この地図では総武本線を跨ぐ橋が架けられていることが確認できます。倉庫側から伸びた線路は跨線橋を通り、作業場の南側まで伸びています。京成津田沼駅には接続しておらず、京成線の手前で終了しています。
この線路が京成津田沼駅に接続していれば、名実ともにS字カーブは鉄道連隊由来といえたのですが、実際は新京成線開業時まで繋がることはありませんでした。

ただし、S字カーブのきっかけとなる京成津田沼駅跨線橋の位置は大正時代まで遡ることができるわけです。

製作年・製作者不明の跨線橋は鉄道連隊演習線跡

跨線橋の周辺拡大

跨線橋は鉄道連隊が「鐵道二倉庫」と「作業場」を結ぶために架橋したものです。1911年(明治44年)に軽便鉄道用(600mm軌間)の鉄橋が架けられましたが、標準軌(1435mm軌間)の機関車を通すために架け直されています。

跨線橋自体は、どこで製造されたのか不明正確な架橋年月日が不明という正体不明な橋ですが、総武本線が電化(船橋~千葉間)されていない跨線橋下の演習線を写した写真が残されているため、電化完成の1934年(昭和9年)の前までには架橋されていたことが分かっています。つまり、架橋されてから90~100年が経つことになります。

一般的な橋梁の耐久年数を考慮すると、100年近い年月を経た橋に毎日電車が通っていることは奇跡のような気がしますが、これも新京成による日々の保守のおかげといえるでしょう。

総武線乗越橋梁」と跨道橋

左が総武本線を跨ぐ新京成線の「跨線橋」。昔は「新京成電車」と書かれていた。右の跨道橋は戦後に架橋された。

跨線橋の名称は「総武線乗越橋梁」という。2005年に塗り替えられていることが分かる

跨線橋の”サイズ感”こそ鉄道連隊のおかげ?

この跨線橋は、鉄道連隊のものだった訳ですが、最終的に新京成に引き継がれることになります。その変遷は後述しますが、戦前に架けられた橋を現代でも使用することが出来るのには、ある2つの偶然が重なっていたことも大きな要因といえます。

①線路の幅が一致

上記で述べましたが、跨線橋はもともと軌間の狭い軽便鉄道用が架けられていましたが、標準軌(1,435mm)機関車を通すために架け替えたものでした。国内では必要のない標準軌でも、朝鮮半島満洲等の大陸では標準軌が採用されていたので、帝国陸軍としては標準軌も扱えないといけなかったわけです。

新京成電鉄がこの跨線橋を使い始めるのは藤崎台駅から京成津田沼駅に接続する1953年(昭和28年)からですが、当時の新京成線京成電鉄と同じ1,372mm(馬車軌)だったので、問題ありませんでした。

その後、新京成線は都営浅草線京急線と直通運転を実施する京成電鉄に先駆けて、1959年(昭和34年)に1,435mmへ改軌を実施します。これも跨線橋標準軌規格であったために可能だったといえます。

5線分の広大スパン

現在、この跨線橋の下にはJRの総武快速線総武緩行線複々線に加え、幕張車両センターへの出入用の単線が通っており、跨線橋は合計5線分を跨いでいます。実は、鉄道連隊が架橋した時点で跨線橋は5線分を収めることのできる橋長があり総武本線複々線化や幕張車両センターの運用開始にあたっても撤去されることはありませんでした。

なぜ鉄道連隊は長い橋を架けたのか?

鉄道連隊が跨線橋を架橋した当時、総武本線は複線分しかありませんでした。つまり、2線分が通れる橋を架ければ良かったのに、なぜ5線も通せる橋を架けたのでしょうか?

先見の明ある鉄道連隊は架橋当時、将来の総武本線複々線化を予測していた……わけではなく、
跨線橋の下には総武本線に平行して鉄道連隊演習線も通っていたからですね。

上掲の古地図に描かれている通り、架橋当時は総武本線に平行して、山側に鉄道連隊演習線も敷設されており、標準軌と軽便軌が各1本(合計2本)敷かれていました。
また、総武本線と鉄道連隊演習線は勾配が少し異なっており、千葉方面の総武本線が下り勾配、大久保方面の演習線が上り勾配でした。そのため、両線の間にはちょっとした段差があるなど、跨線橋の下は4線+αの空間が広がっていました。

総武線乗越橋梁の桁下空間図(配線略図エディタで作成)。戦後の鉄道連隊演習線跡は陸上自衛隊国鉄が使用し、その時は狭軌線路1本が敷設されていた(総武本線複線と合わせ3線)が、図では省略。

跨道橋の下を通っている線路の変遷を図にしたものです。1981年(昭和56年)の複々線化は鉄道連隊演習線跡を活用していることがわかると思います。

なお、跨線橋の橋台は、新津田沼駅側が当時のレンガ造りのままなのに対して、京成津田沼側の橋台は戦後の道路拡幅のために撤去され、現在はコンクリート橋台になっています。

京成津田沼側の橋台はコンクリート

戦後の道路拡張時に替えられた橋台は複線分の幅がありますが、橋桁は単線分となっています。今後、新津田沼京成津田沼間が複線化されることになった際は、鉄道連隊に由来する跨線橋も架け替えられる事になるかもしれません。

まとめ

津田沼京成津田沼間のS字カーブは鉄道連隊演習線跡をそのまま再利用したものではなく、跨線橋を通って京成津田沼駅を結んだために生まれたものでした。そして、跨線橋は偶然にも新京成線総武本線の規格に合うことが出来たために現在も使用され続けています。

ただ、使用できるということは、この跨線橋を敢えて使わなければいけないということでもあり、新京成線京成津田沼駅接続後、何度もルートと新津田沼駅の改廃を繰り返すことになります。

続く。

鉄道連隊演習線に繋がるアヤシイ路線の話⑤

千葉陸軍兵器補給廠専用線について、以前に記事を公開してからさらに分かったことを紹介します。
ただ、何か新しいことが分かった訳ではないので、ただの補足のようなもの。

以前の記事は⇒鉄道連隊演習線に繋がるアヤシイ路線の話① - norehero-19の日記


なお、千葉陸軍補給廠は名称が都度変わっていますが、ややこしいので補給廠に統一します。


補給廠線が描かれた地図

下図は、国立公文書館の史料『公文雑纂・昭和十六年・第九十八巻・都市計画二十一』のうち「千葉都市計画北部土地区劃整理決定ノ件」に添付された地図です。
この史料、名前の通り千葉駅から北側の土地区画整理についてのものですが、ちょうど補給廠線が収まる範囲の地図を載せています。

f:id:norehero-19:20211226183535j:plain
「千葉都市計画北部土地区劃整理決定ノ件」から加工して転載

地図は東側が上を向いています。右側に旧千葉駅があり、すぐ下に千葉機関区の扇形車庫が描かれています。
弁天町の綿打池を左右に通る線路は鉄道連隊演習線で、下志津支線が分岐しています。

総武本線から分岐して「松波町」に分かれている線路が補給廠線です。この線路をよく見ると、総武本線とは完全にくっつかず、並行しながら旧千葉駅と扇形車庫の間にある「軍用千葉駅(□)」で鉄道連隊演習線と接続しています。

この地図からも、補給廠線は旧千葉駅ではなく、軍用千葉駅を拠点にしていたことが分かります。


ちなみに、すでにいろいろな地図を載せているのでご存じだとは思いますが、この地図のように軍事施設を空白にして何も描かないことを「戦時改描」といいます。
この地図の場合、鉄道第一連隊や材料廠、歩兵学校など、軍関連施設は全て「無いこと」になっています。真っ白いエリアがあからさまなので怪しさは際立っていますが。
ただ、演習線などの鉄道はきちんと描かれているのは面白いところです。軍所有といえども鉄道は軍事施設ではないということなのでしょうか?


軍用千葉駅≒千葉駅構内軍用ホーム?

第③回は「軍用千葉駅」と「千葉駅構内軍用ホーム」はどの場所を示すのか?という疑問を投げ、前者は鉄道連隊の駅、後者は省線千葉駅(旧千葉駅)に軍の専用ホームがあったのではないか。
と推測しましたが、後者も前者と同じ鉄道連隊の駅のことを指していると感じてきました。

f:id:norehero-19:20211226173838j:plain
第③回と同じ千葉駅の航空写真


というのも、『鉄道ピクトリアル』2020年9月号(№977)に、昭和12年(1937年)と昭和36年(1961年)の旧千葉駅の配線図が掲載されており、それを見る限り、鉄道連隊演習線(材修場線)は千葉駅構内線と連絡線一本のみしか接続されていないからです。


ただ、そのまま配線図を転載するのは気が引けたので、廃線略図エディタさん(https://raildiag.uxm.jp/)で両年の配線図を作成しました。詳しい配線図はネットで検索すれば新旧の千葉駅を掲載している方がいるので探してみてください。

昭和12年千葉駅(昭和12年3月) | Railroad Wiring Diagram Editor
昭和36年千葉駅(昭和36年) | Railroad Wiring Diagram Editor


どちらの配線図も補給廠線がリアルに接続されていた戦中時代のものではありませんが、両配線図は旧千葉駅であり、配線自体もほとんど変わっていないことから、当時の様子を知れる貴重な資料です。

戦前も戦後も、旧千葉駅は配線がほとんど変化していなかったことを踏まえると、戦中だけ軍専用の貨物ホームがあったとは考えにくいため、「軍用千葉駅」と「千葉駅構内軍用ホーム」はどちらも鉄道連隊が使用していた軍用千葉駅のことを指していると結論します。


文献に記載された補給廠線

補給廠線は地図や鉄道省文書といった史料にしか登場がなく、本当に実在したのか疑わしく感じる?路線なのですが、実は『松波のあゆみ』(松波町史編集委員会、平成9年7月、ISBNの設定なし)という本に補給廠線について言及している文があります。
「軍用物資輸送の軍軽便鉄道を敷設」(118頁)という項の一節で、ちょっと長いですがそのまま引用します。

戦時中、千葉駅軍用ホームより西へ総武鉄道に平行して、現松波一丁目を過ぎたあたりから右折し、京葉銀行㈱西千葉支店の西側脇より県営住宅に向かう。そして材料補給廠(現轟町経済高校)へと進み、それより犢橋から習志野原鉄道第二連隊へ。

文中、松波の京葉銀行西千葉支店は2020年にみどり台に移転しましたが、現在も西千葉出張所として残っています。また、轟町経済高校は千葉経済大学付属高校のことです。
けっこう特徴的な半円カーブについて触れられていないのは悲しいですが、松波地区ではないため気にしないことにします。

上記の文から、今まで扱ってきた補給廠線は幻ではなく、きちんと地域に認識されていたといえるのではないでしょうか。

2022年に向けて

今年はブログを立ち上げて、へったくそな文章と画像を投稿してきましたが、2022年も引き続き千葉の廃線未成線を取り上げていければと思っています。
構想として、まずは飯岡軌道や小湊鉄道といった未成線を中心に取り上げていき、技術力も向上させたいと思っていますので、2022年もよろしくお願いします。

柏陸軍飛行場建設用鉄道

このブログの主旨?に基づいて、今回は廃線の紹介。
できれば現地にちゃんと行って調べて来れれば良いんだけど、今回も例によって地図と航空写真だけでお茶を濁します。
そして、有名どころはそれだとさすがに手抜き感が強いので何とも言えないマイナーなものをチョイス…。

飛行場建設用鉄道

千葉県は戦前や戦中、東京を空襲から衛るために、陸・海軍の飛行場が多く建設されました。
戦後、その多くは農地や工場用地となっていますが、一部は自衛隊基地として現代に残っているものもあります。

そんな軍用飛行場を建設するために、当時は安定的に資材を供給できる手段として鉄道を敷設して工事を行いました。
”鉄道”といっても、中には軽便軌間であったり手押しトロッコであったり、そのレベルは様々だったようです。

飛行場完成後、建設用鉄道は人員や飛行機資材等の運搬用に使用されるパターンもありましたが、その多くは目的を達成したということで撤去されています。

今回取り上げる廃線は、飛行場の完成後に撤去されてしまった建設用鉄道です。


柏陸軍飛行場とは?

「柏陸軍飛行場」は、かつて柏市に存在した陸軍の軍用飛行場です。
ロケット戦闘機「秋水」の試験飛行場として有名です。

1938年に完成し、戦争中は帝都防衛の要として活用されましたが、戦後に米軍の占領を受けています。
返還後は「柏の葉」として開発され、「飛行場」を感じられる遺構は全くありません。
秋水用の燃料庫が数基残っていますが、破壊されてしまったものもあります。


柏飛行場には戦前に建設されたということもあってコンクリート舗装の滑走路が1本ありました。
長さは1,500mあり、陸軍の戦闘機が飛び立つのに十分な長さです。


まあ、詳しくはWikipedia参照ということでお願いします。
柏飛行場 - Wikipedia


現代地図と比較してみる

下図は今昔マップを基に柏陸軍飛行場のおおよそ範囲を描いたものです。
(微妙にイビツで合ってないし誘導路がはみ出しているのは許して)

f:id:norehero-19:20211205214253p:plain
今昔マップを加工

左図は昭和27年(1952年)、右図は現代。

戦後、柏飛行場は廃止され、諸施設を米軍が占領している以外は農地として開墾されていました。
滑走路は「旧滑走路」として地図に描かれていますが、実際はコンクリート舗装が剝がされていたようです。

また、飛行場には滑走路に付随して平行、東、西、北の各誘導路がありました。航空写真だと何となく分かるのですが、地図だとさっぱり分かりません。


こうして現代の地図と見比べてみると、飛行場敷地内はほとんどが官公庁の施設や学校、公園となっており、広い敷地を有効活用していることが分かります。


廃線跡

ここで本題の廃線跡ですが、柏飛行場は線路路盤を西誘導路として転用したようで、残念ながら戦後の開発によって誘導路もろとも現代には残っていません。

柏飛行場は1938年に建設が始められ、その年のうちに完成しているので、鉄道は少なくともわずか半年程度しか稼働していなかったことになります。


では、当時どこに鉄道が敷かれていたのかを確認してみます。

f:id:norehero-19:20211205192820p:plain
今昔マップを加工

地図は先ほどの柏飛行場と同じ時代で、やや西よりです。
東武野田線が南北に、常磐自動車道が南から東へ貫いています。

飛行場建設用鉄道は東武野田線の運河駅から敷設されており、途中で野田線から離れて飛行場まで向かっていました。
野田線とは単線並列だったそうで、建設は鉄道連隊が行ったようです。
(運河駅~初石駅間の複線化が東武野田線の中でも早期に行われたのはこの線路のおかげ?)

ただ、肝心の廃線跡はというと、何も知らないでこの地図から見つけるのは超高校級の地図好きでもたぶん無理です。

もったいぶっていますが、順序良く次は航空写真を貼ります。

f:id:norehero-19:20211205200915p:plain
1947年(USA-R393-156)

国土地理院の「地図・航空写真閲覧サービス」を加工して、運河駅を図示。

こうしてみると、やっと廃線跡を確認することができると思います。
運河駅の南側、北から東へ向けてカーブする道路がありますが、これが廃線跡です。


この航空写真には西誘導路跡も写っているので、廃線跡とそれも合わせたのが下図です。
f:id:norehero-19:20211205201203p:plain
建設用鉄道は西誘導路として活用されるため、途中から線が重なります。
鳥瞰してみると建設用鉄道は北から伸びる谷津を避けて建設されていると感じますね。

終点はどこか。

始点が運河駅だとすると、終点はどこになるのでしょうか。
もちろん飛行場なのですが、飛行場のどの場所まで線路が敷かれていたのかは定かではありません。
何となくこの辺りじゃないかな?って所まで線を引いたのが下図です。

f:id:norehero-19:20211205202113p:plain
1947年(USA-R393-155)

先ほどの写真の東側です。コンクリート舗装された白い滑走路跡が目立ちます。

オレンジ線部は土地が開けていて誘導路跡として確認できるのに対して、黄色線部は農地として開拓されているため、廃線跡どころか誘導路跡も分からなくなっています。

もしかしたら途中で南下して平行誘導路の方まで線路が伸びていた可能性もあります。
真の終点は頑張って調べてチャンとわかったら更新します…。


江戸川台の道路がほぼ一致

f:id:norehero-19:20211205211442p:plain
2019年8CKT20192-C3-14)

現代に廃線跡を重ねてみる。
戦後の写真と比べるまでもなく完全に住宅街として発展しているけど、いくつかの道路は過去と変わらない。
東武野田線との分岐部は推測になるけど、カーブ終端から東に向かう道はそのまま道路となっていると考えて問題ないと思う。

f:id:norehero-19:20211205214312p:plain
1997年(CKT20192-C2-15)

赤い透過が飛行場、青い透過が滑走路。現代だと常磐自動車道より東側がよく分からない形になっている。

まとまらないまとめ

当鉄道は飛行場の建設のためだけの短い期間しか使用されなかったため、そもそも建設されなかった(未成線)という話もあるようですが、
実際に蒸気機関車が走っていたという話もあるため、おそらく実際に運用されていたでしょう。
軍用施設のため、その辺の細かい情報は出回らなかった気もします。

また、軽便鉄道(鉄道連隊施工なら600mm?)と言われていますが、東武野田線から資材を積み替えていたのでしょうか?
もう少し地域史や鉄道連隊の史料に当たれば答えが見つかるかもしれませんが、どうでしょうか。


参考文献は『柏にあった陸軍飛行場』です。

 

松代と小諸に行ってきた③

小諸を後にして、最後の目的地、龍岡城へ向かう。

臼田駅

f:id:norehero-19:20211128173106j:plain
臼田駅

臼田駅です。いい駅です。
龍岡城へは隣の龍岡城駅より臼田駅の方が近いので、ここから歩いていきます。


f:id:norehero-19:20211128173400j:plain
f:id:norehero-19:20211128173413j:plain
f:id:norehero-19:20211128173455j:plain
f:id:norehero-19:20211128173515j:plain
かつて2面3線あった配線も1年前に交換設備が廃止されており、今は1面1線になっています。

線路設備は最近工事したばかりなのか、いろいろ残ったままになっていました。
効率化のためなら容赦の無い東さんですが、保線線路ごと引っぺがすのは大胆だ…。

旧貨物ホームは大丈夫そうだけど、待合ベンチのある島式ホームは今後撤去しちゃうのかな。
線形改良も兼ねて乗り場ホームの拡張とかやるかもしれませんね。

f:id:norehero-19:20211128175004j:plain
日本で海から1番遠い地点から10km地点

龍岡城に向かう道中の交差点。「日本で海から1番遠い地点」は山の中にあるそうです。

龍岡城

f:id:norehero-19:20211128175350j:plain
だらだらと歩いていたら着きました。龍岡城です。
ここは日本で2ヶ所しかない、☆の形をした星形要塞、つまり五稜郭です。
龍岡っていうのはこの辺りの字名らしいですね。

f:id:norehero-19:20211128175648j:plain
入口

ただ、「城」といいつつ、実際は龍岡藩の陣屋だったので、規模はそこまで大きいわけではない。
また、城内は小学校となっていますが、2022年度で廃校となるそうで、廃校後は校舎を取り壊して、当時の状態に復元する計画があるようです。
ここの大手門跡も、もしかしたら門が復元されるかもしれません。

f:id:norehero-19:20211128175859j:plain
田口招魂社
f:id:norehero-19:20211128181031j:plain
立派な銀杏の木
f:id:norehero-19:20211128180535j:plain
御台所

城内での現存遺構である御台所。もともとは城内の中心辺りにあったのを移築している。廃校後はもとの場所に戻す予定らしい。


休日だったので小学校はお休みだったけど、やっぱり校内にいるという気持ちはドキドキするので、早々に退散。
であいの館に寄った後、次は山を登ったところにある展望台を目指します。

やっぱり星形といっても、地面で見ててもよく分からない。ここまで来たからには上から見ないことには帰れない。
いや実際歩いていたら、道路や堀の形でなんとなくわかるけど。

f:id:norehero-19:20211128181632j:plain
佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館

写真の時点でめっちゃ眩しい。この時点でたしか15時くらいです。

展望台へ

龍岡城が見渡せる展望台へは車でも行ける林道ルートと徒歩でしか行けない登山ルートがあります。
勾配的に楽なのは林道ですが、城からは回り道になるので直進的に行くには登山ルートが一番早いです。
ただ、登山ルートは地図に描かれていないので、であいの館で案内図をもらいました。



f:id:norehero-19:20211128182429j:plain
展望台への道、入口

最初からこれ。
道を間違えたかと思ったけど、よく見ると「展望台↑」って紙が貼ってあるので行くしかない。前途多難感が半端ないですが、人は通っても大丈夫なので奥へと進みます。


f:id:norehero-19:20211129153704j:plain
次はどっちだ…って思う頃に矢印くんがいるので迷わない。

f:id:norehero-19:20211129154227j:plain
柿の木

案内図に描かれている柿の木チェックポイントまできた。登山道はこのまま真っすぐです。


f:id:norehero-19:20211129154401j:plainf:id:norehero-19:20211129154413j:plain
登山道はよく整備されていて、道が見えるので迷うことはないです。看板もときどきあるので大丈夫。
ちなみに写真だと分かりにくいですが、めちゃくちゃ急勾配です。

撮ってないですが、登山道入ってしばらくはお墓があります。また、石垣が組まれている平場があったり、炭焼き窯の跡もあったりと里山を感じられる。


f:id:norehero-19:20211129155709j:plain
この九十九折の上が林道。
今回はちゃんと山登れる靴で行ったけど、スニーカーとかで登ってたらダメだったな。

あと、今回は秋だから藪も虫も心配なく登れたけど、他の季節ならもっと対策していかないとヤバイと思いました。


f:id:norehero-19:20211129160004j:plain
f:id:norehero-19:20211129155951j:plain
登山道を登り切って、林道まで来れた。逆コースだったら絶対こんな道入っていかない。


f:id:norehero-19:20211129160250j:plain
林道をしばらく歩くと、また小道に入っていくルートになります。展望台はもうすぐそこですが、途中に三角点があります。
龍岡城からここまで20分くらいで行けると思ったんですが、結局30分かかりました(疲労困憊)

f:id:norehero-19:20211129160929j:plain
展望台

というわけで着きました、展望台。 
紅葉がすごいですが、さんざん見てきたので全然キレイに撮ろうという気持ちがない。

龍岡城展望台

展望台から撮った龍岡城です。
f:id:norehero-19:20211129161357j:plain
f:id:norehero-19:20211129161549j:plain
夕暮れ時なのに夕日が上手に収まっているわけでもなく、紅葉とバッチリ撮れているわけでもない…。
こういうときにもっと写真練習しておけば良かったと後悔するのであった。

自分としては、「小学校の校舎がある龍岡城」を撮りたかったので目標達成です。
そりゃあ復元されるのが一番でしょうけど、城内が「学校」になって100年以上経っているのも歴史として認識しないといけないと思うわけです。
そして何より、堀に囲まれた小学校が単純にカッコイイじゃないですか。


あと、分かってはいたけど、ザ・★!って感じで撮るのは高さ的に無理ですね。
星力を感じたいときは大人しく航空写真見るかドローン飛ばすしかなさそう。


ほんとは展望台からさらに林道を登って行ける田口城跡も行ってみたかったけど、日も暮れてきたので撤収。
帰りは林道を下りて龍岡城駅まで向かいます。

龍岡城駅は1面1線の駅ですが、待合室はお城っぽくなってました。写真は撮り忘れた。


あとは林道の様子を何枚か撮ったので、それを上げて終わりにします。ありがとうございました。

f:id:norehero-19:20211129164223j:plainf:id:norehero-19:20211129164236j:plainf:id:norehero-19:20211129164249j:plain
林道は舗装されてはいるが時々砂利敷になる。待避所も所々にあるがあんまり広くはなかった。

f:id:norehero-19:20211129164423j:plain
情報量が多い

幸いにもクマさんには出会いませんでしたが、いても全然おかしくない雰囲気。

f:id:norehero-19:20211129164542j:plain
山奥って謎の廃車あるよね。屋根が乗ってる豪華タイプ。
f:id:norehero-19:20211129165118j:plainf:id:norehero-19:20211129165132j:plain
林道の入口にはちゃんと看板があるので分かりやすい

終わり。