アヤシイ道路

突然ですが、この地図は千葉駅の北側、千葉経済大学の周辺です。左が地理院地図、右がオープンストリートマップです。もう先走って地図に書き加えていますが、①轟町と②松波には周辺の地割とは異なる曲線を描く、アヤシイ道路があります。
①四角い区画から伸びる上半円の道路
②総武線からゆるりと右上に分岐する道路
この2か所の道路が、線路の跡なのではないか?ということです。
今回はこのアヤシイ道路の正体について考察していきたいと思います。
千葉県の鉄道史に必ず登場する陸軍の鉄道部隊
ご存じの方は、この辺りがかつて鉄道第一連隊の拠点であり、演習線が敷かれていたと察していただいていると思います。
そもそも鉄道連隊とは何ぞや?という方はイカロス出版の『実録鉄道連隊』が体系的にまとまっていると思いますのでオススメです。
鉄道連隊の演習線といえば、第一連隊が敷設した習志野線とその支線である花島迂回線や下志津線、第二連隊が敷設し、戦後にその大部分が新京成線となった松戸線があります。千葉県営鉄道八街線も、もとは四街道~八街~三里塚間で行われた鉄道連隊による演習線を転用したものです。
実は、上掲『実録鉄道連隊』の路線図には、冒頭の①と②の道路が鉄道路線として描かれていますが、文中での言及はありません。他にも鉄道連隊関連の書籍は様々ありますが、そもそもこの道路を鉄道として扱っているものは無かったと思います。
鉄道連隊の演習線に隣接していながら、演習線ではない…そもそも鉄道なのかすら不明なこの道路の謎に迫っていきたいと思います。
戦前の千葉市は「軍都」

画像は1930年の千葉駅北部と現代の比較図です。鉄道第一連隊の営舎が置かれていたのは椿森の「鐡道一」となっている所です。ここは津田沼の千葉工業大学に残る門柱のような遺構はなく、石碑が立つのみです。
そして、地図中央にあるのが「千葉兵器支廠」と鉄道第一連隊の倉庫です。戦後は国鉄の千葉レールセンターを経て、現在は千葉経済大学となっており、大学構内には材料廠の遺構として煉瓦建築が残されています。
現在の千葉駅周辺には鉄道連隊のほかに陸軍歩兵学校や気球隊、戦車学校、千葉衛戌病院といった諸施設も置かれていたことから、「軍都」と呼ばれていました。ただ、特徴的なのは教育機関が多いということです。
地図の中で「軍用鉄道」と書かれているのは下志津線の線路です。習志野線は旧千葉駅の西側から北上していました。途中、兵営内や兵器支廠、下志津線がそれぞれ分岐し、園生方面に抜けています。線路は前述のレールセンターの引込線を経て廃線となり、現在はモノレールが上空を通っています。
前置きが長くなりましたが、肝心のアヤシイ道路に相当する場所には線路が描かれていません。道路は本当に単なる道路であって鉄道とは無関係ないのかも。
そんな風に考えたまま、調べ始めてから暫くはほったらかしにしていましたが・・・。
描かれた未知の鉄道

この地図は5万分の1ですが、上図と同一の場所を抜粋したもので、1944年に部分修正された地図です。スタンフォード大学のサイトから閲覧できます。
https://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=733446cc5a314ddf85c59ecc10321b41
何も図示していませんでしたが、千葉駅~西千葉駅間から北西方向に分岐する謎の線路が描かれています。線路は東大と兵器支廠の間を抜けて、戦車学校の南側で大きくカーブ、そのまま習志野線と合流しています。
この路線を、松波地区を通って習志野線と環状になっていることから、この記事だけの呼称として「松波環状線」とします。
今昔マップの1930年には無く、1944年の上図には存在することから、14年の間に敷設された鉄道といえそうですが、この地図だけではまだ実態は掴めません。
仕訳線も存在した「環状線」


この2つの地図は、米軍陸軍地図局が作成した戦後の地図を抜粋したものです。縮尺が異なるため分かれています。テキサス大学のサイトから閲覧できます。
https://maps.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/
地図局の1枚目地図をみると「松波環状線」は千葉兵器支廠の敷地内に数本の線路が描かれており、”駅”に相当する施設があったと思われます。”駅”の北には引上線のようなものもあります。
2枚目地図では、環状線は複線の総武線と合流して消えてしまいますが、スタンフォード大学の地図では総武線とは別線で描かれていました。別線であればこの区間では三線ということになりますが、果たしてどのようになっていたのでしょうか。
また、これらの地図に線路が描かれているということは、「松波環状線」が八街演習線のような敷設後に撤去された臨時の演習線ではなく、戦中から終戦にかけて敷設された(であろう)常設線であったといえます。