宮内庁公文書館「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」
インターネット上では、国立国会図書館のデジタルコレクションをはじめとして様々な検索システムが利用できますが、その中の一つに、宮内庁公文書館が管理する所蔵資料の検索システムがあり、図書寮・公文書館・陵墓課のそれぞれで所蔵されている資料を検索することができます。
宮内公文書館 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
資料の中には画像公開されているものもあり、貴重な資料の一部をインターネット上で閲覧することができます。
今回、鉄道関連の資料を探していたところ、『鉄道連隊附図』という非常に興味深い史料が公開されていることに気付きましたので、内容を紹介したいと思います。
『鉄道連隊附図』
『鉄道連隊附図』(以下、附図)は、「明治天皇御手許書類」に分類された史料の一つで、明治期に作成されたものとして登録されています。下記は史料のリンクです。
鉄道連隊附近図/明治 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
「附図」といっても、それ一枚の物ではなく、実際は5点セットとなっており、内訳は以下の通りです。
- 鉄道連隊一般図
- 鉄道連隊附近之図
- 材料廠一般図
- 鉄道連隊第三大隊一般図
- 普通鉄道上部建築作業人員配当図
5点のうち、まずは一般図と材料廠一般図を見ていこうと思います。
当記事では史料の一部を掲載しますが、低画質となっているので、文字や線などの詳細を高画質で見てみたい方はリンクからの閲覧をオススメします。また、掲載する画像は特記しなければ、全て宮内庁公文書館所蔵資料を一部加工したものになります。
鉄道連隊一般図と材料廠一般図
当史料は、鉄道連隊の配置図といえるもので、千葉の鉄道連隊材料廠、鉄道連隊営、千葉軍用停車場のほか、津田沼の材料廠津田沼倉庫と第三大隊営、軍用津田沼駅も描かれています。
特に興味深いのは、材料廠内の建物配置と線路配線で、1,067mmの尋常線(狭軌)は赤線、600mmの軽便線は青線で描かれています。
次は材料廠一般図と題された史料で、鉄道連隊材料廠の図です。ちなみに、鉄道連隊一般図の材料廠と見比べると配線の一部が異なっています。
わざわざやる必要はないのですが、両図に描かれた配線を配線略図エディタを使用して配線略図を作成してみました。北側を上向きにしています。
旧版地図との比較
今昔マップを使用して大正時代と比べてみます。千葉の鉄道第一連隊です。
鉄道材料廠と書かれた場所をみると、建物配置や線路配線が一般図とほぼ一致していることが分かります。
対して、津田沼の第二連隊(大三大隊からの変遷は後述)を見ると、鉄道二倉庫と書かれたエリアは津田沼材料倉庫と一致しますが、線路が1本しか描かれていません。これは、省略されてしまったのでしょうか。それとも実際には線路は敷かれていなかったのでしょうか。
いつ、何のために作成された史料か?
両史料は、前述の通り、明治時代の作成とされています。ですが、明治何年であるかはどこにも書かれておらず、特定することは出来ません。しかし、史料から読み取れる以下2点の情報から作成年は明治44年であると推測します。
①鉄道第三大隊の存在
鉄道第三大隊は、鉄道第二連隊の前身で、1908年(明治41年)に津田沼で編成された部隊です。1918年(大正7年)に鉄道第二連隊となりました。鉄道連隊一般図には第三大隊が描かれているので、1908~1918年間で作成された史料であると絞ることが出来ます。
②「御」の表記
材料廠一般図には凡例外にも注記があり、「御乗車場」「御下車場」「御徒歩御通路」「御乗車御通路」と書かれており、廠内にルート図のようなものが描かれています。全てに「御」の文字があることや、そもそも当史料が宮内庁公文書館所蔵であることから、行幸または行啓に関する史料であると考えられます。
それをもとに、①の期間内での官報から宮廷録事を調べてみると、当てはまる記事が1件ありました。
1911年5月22日の東宮行啓
1911年(明治44年)5月24日の官報*1によると、5月22日、当時皇太子であった大正天皇(東宮)が四街道の陸軍野戦砲兵射撃学校や野戦砲兵第十八連隊、津田沼の鉄道大三大隊や騎兵連隊、千葉の鉄道連隊を行啓されたと記載されています。
東宮によるこの日の行啓は、『鉄道第二聯隊歴史』(帝国軍隊歴史刊行会編、1932年)*2の7ページに詳細が載っており、それによると、津田沼駅からお召列車で千葉駅到着後、鉄道連隊営内から次のように行われたと記されています。
将校集会所に於て御休憩の後、営庭より軽便鉄道に乗御、作業場に御臨場、車中より第一大隊軽便鉄道、第二大隊普通鉄道の敷設作業を台覧、同列車にて材料廠に御臨場、機関庫及工場を台覧あらせられたる後、再び軽便鉄道列車にて営庭に着御、松の御手植を賜はり、午後5時50分御還啓遊ばさる。
材料廠一般図では、材料廠内の「A」地点で「御下車」、車輌工場から雑品庫、機関車庫を経由して、「B」地点で「御乗車」されていることが分かります。鉄道第二聯隊歴史の「機関庫及工場を台覧」という記述と一致することから、当史料は行啓の行われた明治44年に、行啓の計画図ないし実施記録として作成されたものと結論します。
鉄道第二聯隊歴史では、軽便鉄道列車に乗車されて材料廠に到着されたとしているが、一般図では材料廠入口からA地点まで線路が描かれていないし、一般図はあくまでも「車」という表記のため、これが列車なのか、御料車なのかは判別できない。また、なぜ材料廠の図面のみで、台覧された作業場の図面は無いのか。
①の期間内で実施された作業場と材料廠内の行啓は、1918年(大正7年)5月26日に当時の摂政宮(昭和天皇)によるものもある。しかし、1918年行啓では、摂政宮は材料廠から徒歩で歩兵学校に向かわれていることや、鉄道連隊附図があくまでも明治天皇御手許書類であることから、この時のものであるとは考えにくい。これらの問題点について、もっと詳細を知るためには行啓録をあたるしかないと思う。
続く。
*1:国立国会図書館デジタルコレクションコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2951731/1/4