千葉好き地図鉄の雑記録

千葉県の鉄道などについて記します。

海軍香取航空基地への引込線

以前、陸軍の松戸飛行場とその建設用鉄道についての記事を書きましたが、今回は海軍の飛行場であった「香取航空基地」とその飛行場建設を担った鉄道を紹介します。

 

海軍香取航空基地

香取航空基地」は現在の千葉県匝瑳市旭市にまたがる地に、帝国海軍によって建設されました(以下、飛行場)。

1938年頃に海軍横須賀建築部によって建設が決定され、1942年頃に完成したといわれています。もとは江戸時代に「椿海」といわれた湖を開拓して成立した土地で、「干潟百万石」といわれていた場所でした。

所在地は香取郡ではなく、当時の匝瑳郡と海上郡でしたが、これは香取神宮にあやかって名付けられたそうです。

当飛行場は、茂原市に存在した同じ海軍の「茂原航空基地」とともに帝都防衛を担いましたが、本土初の特攻隊が出撃した哀しき飛行場でもあります。

 

今昔マップを加工。1947年

上図は1947年の旧版地図です。

終戦2年後の写真ですが、中央にクロスする十字型の滑走路、西側に司令部等の建物群、北側に誘導路と掩体壕が残されたままになっていることが確認できます。

飛行場南側には「ひかた」と書かれた干潟駅総武本線があります。今回の主役駅です。

 

 

香取航空基地と干潟駅(USA-M44-A-5VV-297を加工、1946年)

1946年の国土地理院の空中写真です。地図と同様ですが、飛行場の規模感が伝わってくると思います。戦後、飛行場跡の敷地は海軍省から大蔵省に移管され、さらに農林省に渡りました。この写真ではまだ始まっていませんが、のちに払い下げられて田畑として開墾されていきます。

司令部等の戦後残された建物は、学校や病院に転用されていました。格納庫は空襲被害を受けた銚子駅の駅舎として活用されていましたが、現在は建て直されて現存しません。滑走路跡はコンクリート舗装のため容易に開墾できなかったため、1960年頃まで塩田として使用されました。

 

 

地理院地図を加工。2012年

現在の飛行機跡地の空中写真です。

滑走路跡を囲った土地が「あさひ鎌数工業団地」になりました。塩田として使用された滑走路のうち、北西南東は自動車ブレーキ(日清紡ケミカル)のテストコースになっています。

 

引込線

前置きが長くなってしまいましたが、本題である引込線の話をしていきたいと思います。

 

USA-R535-178を加工(1947年)

1947年の干潟駅と飛行場南西部の空中写真です。
戦後のため、既に飛行場としての機能は失われていますが、滑走路や誘導路が残っているのは1946年と変わりません。

実は、干潟駅から飛行場まで、飛行場建設用資材運搬の引込線が存在していました。この写真にも引込線跡と思わしきラインが残っていますが、分かりずらいため、線を引いたものが下図です。

 

USA-R535-178をさらに加工(1947年)

引込線干潟駅から分岐し、緩いカーブを描いて北側の飛行場まで伸びていました。実線はラインが明確な線、破線は曖昧な線です。

 

この引込線ですが、おそらく飛行場建設が始まるとともに敷設されたのでしょう。戦後は取り払われ、空中写真の撮影年である1947年時点で道路になっていたと思われます。ただ、1951年の『専用線一覧表』には干潟駅の契約者として「大蔵省」が記載されている(ただし無契約)ことから、書類上は戦後しばらくの間「存在」していたようです。

※作業キロは0.2kmのため駅構内の側線のみが専用線であり、飛行場に伸びる線路は専用線扱いでは無かったかもしれない。

 

戦中、実際に鉄道が存在していたことを裏付ける記述が『旭市史』にあります。以下市史からの引用文となりますが、当時の米軍による空襲に遭遇した方の体験談になりますので苦手な方はご注意ください。

干潟駅ホームで上り両国行の汽車を待っていた県立匝瑳中学校三年生の私(注:被災者本人)は、ふと東南東の空を仰いだ。風もない冬の澄んだ空だった。その空から二十数機の黒いプロペラ機が音もなく、まっしぐらに降下してきた。(中略)空襲は約三十分続き、敵機は洋上へ去っていった。こわいもの見たさの好奇心から、ズックカバンを小わきに、駅から現在の日本ブラス工業辺まで伸びていた資材運搬用トロッコ線路をかけていったが、血走った海軍兵に一喝されてしまった。

旭市史』192~193頁、1980年3月より引用

 

この方が米軍機の機銃掃射に遭遇したのは1945年2月16日のことでした。当時、空襲により飛行場の燃料タンクが被弾して黒煙を上げており、まだ子供だったこの方は、干潟駅から飛行場を見に行こうとした際に「資材運搬用トロッコ線路」を駆けていった、と書かれています。

空襲被害に遭った方の体験談になるため、その文章から”鉄道”を見出すのは気が引けますが、1945年時点でも引込線が存在していたことが分かります。

そして、文中に「日本ブラス工業」とありますが、これは現在の「新日本ブラス」のことで、滑走路の南西端に位置していることから、引込線は滑走路附近まで伸びていたことも分かります。

 

香取航空基地で使用された機関車

当飛行場ではガソリン機関車が資材運搬トロッコの牽引機として使用されていました。この機関車は、銚子電気鉄道(当時は銚子鉄道)が所有していた「2号」機関車で、「プリマス・ロコモティブ・ワークス」というアメリカの会社が製造した機関車です。

白土貞夫氏のRM LIBRARY『銚子電気鉄道(下)』(7頁)に詳細が記載されていますが、2号機は1942年に干潟通運(現在の銚子通運)に貸し出され、飛行場で使用されたようです。戦後は銚電に戻っていますが、すぐに解体されて現存しません。

引込線の実態は不明ですが、資材運搬用に上記の機関車を使用していたことから、干潟駅から伸びていた引込線も銚電と同じく狭軌であった可能性が高いと思われます。

 

干潟駅と貨物ホーム跡

干潟駅

10年以上前、2012年に筆者が撮影した干潟駅が収まってない下手くその写真です。余談ですが、総武本線の木造駅舎も数が少なくなってきました。

 

貨物ホーム跡

跨線橋上から撮影した貨物ホーム跡です。現在は保線基地となっています。真夏の撮影のため草に埋もれていますが、建物とホームの間に2線あります。

当時、ここから飛行場への引込線が伸びていたのでしょう。

 

0番線跡

ちなみに、現在の干潟駅は相対式2面2線ですが、かつては2面3線有り、上り線ホームは島式でした。ただし、番線カウントは0~2番線という珍しい駅。

写真右側のフェンスで仕切られたホームが0番線跡です。

よく見ると線路跡は草が生えていなかったり、奥の電化柱の幅が1線分広くなっています。ホームも線路跡に沿って湾曲しており、キレイな廃線跡です。

 

引込線跡は何も無い?

CKT20114-C18-20を加工(2012年)

現代の空中写真に推定の引込線跡を描いたものです。見ての通り、痕跡は全く残っていません。探索の手掛かりになるのは当時と変わらない明治川程度でしょうか。

 

 

以上、香取航空基地の建設用引込線でした。

ブログ名を変えました

ずっとアカウント名ってのもどうかと思ってたので今更ながら名称を変えました。

 

地図鉄ってなんだよって思いますが、地図を見ているだけで列車に乗って車窓を楽しめる界隈ですね。

 

違いますね。

いや、合っているか?

 

アイデンティティの自問自答してても仕方ない…。

 

架空鉄との親和性は高いですが、一応このブログでは現実世界のことを歴史地理的な見方で、扱っていきたいと思っています。

 

終わり。

 

「千葉県の廃線・未成線地図」について

「千葉県の廃線未成線地図」を閲覧いただきありがとうございます。
当記事ではgoogle mapでまとめている当地図(↓)の内容を説明いたします。


1.レイヤ

当地図は以下のレイヤで構成されています。

2.記号

当地図でプロットしている記号は以下の意味を表しています。

  • 「ライン」は線路。ただし、配線全てを表現している訳ではない。
  • 「マーカー」は駅や信号場等の場所。
  • 「範囲」は操車場や貨物駅等の鉄道関連施設。

特にマーカーは次の形で各施設を表しています。

  • 廃駅   =水滴 (💧の逆向き)
  • 未成駅  =四角 (■)
  • 貨物の廃駅=丸形 (●)
  • 転車台跡 =機関車(🚂)

その他記号は上記のどれにも当てはまらないと感じた時にきまぐれで使っています。

3.編集方針

当地図は以下の独自ルールに基づいて作成しています。

  • 廃線」は営業の終了した鉄道路線のほか、索道、軌道(路面電車)、工事用の仮設線も扱う。
  • 未成線」は未完成路線や延伸構想のある路線、戦前の免許却下線(青図)も扱う。
  • 専用線は基本的に鉄道広報『専用線一覧表』に記載された名称を使用する。
  • いわゆる専用側線(駅構内で接続する専用線)や専用鉄道も専用線と呼称する。
  • ラインやマーカーの名称はなるべく正式名称にするが、不明な場合は分かりやすい名称にする。
  • 「鐡道聯隊」等の旧字は常用漢字に直す。ただし、「小湊鐡道」等の固有名詞は例外。
  • メートル法以外の距離単位(哩鎖や町歩)は全てメートル換算。

4.注意点

  • 独自ルールなんて生意気に言っていますが、要は自己満足で勝手にまとめているだけです。
  • 年月日、距離、各コメントは調べた上で記載していますが、想像的な内容もあるため、正確性は保証できません。もし誤り等がある場合は、地図凡例記載のメールアドレス、当記事コメント欄、Twitter@linwu67)などにご連絡いただけますと幸いです。
  • google mapの航空写真に合わせてプロットしているため、位置ズレは起こり得ます。
  • KMLエクスポートして地理院地図等で表示することもできますが、マーカーの表示がなぜかズレます。

5.今後

  • google mapの仕様変更や規約に抵触する場合に備えて、LeafletやOpenStreetMapへの移行や併用も考えていますが、今のところ全く何もしていません。
  • 別に千葉県でないといけない理由は無いのですが、他県版を作成する予定は今のところないです。
  • とかなんとか言いながら、千葉鉄道管理局管内はセーフにして東京都港湾局専用線とかもまとめたいと思っていたりいなかったり。

以上です。
当地図のほかに、当ブログの他記事もどうぞよろしくお願いいたします。

千葉県の転車台紹介③

千葉県に存在した転車台、③と続けながらもほぼ番外編のようなもの。

東金駅

CKT7413-C26-42を加工(1975年)

1975年の東金駅の空中写真です。
東金駅は今でこそ2面2線だけの通常的な交換可能駅ですが、かつては2面3線あり、貨物側線や専用線も有する貨物中心の駅でした。
また、写真には2番線にDE10牽引の貨物列車が写っています。


さて、1975年は東金駅と上総片貝駅を結んでいた「九十九里鉄道」が廃線となってから14年後の世界です。
東金線ホームの海側にあった九十九里鉄道の線路は既になく、敷地であったであろう場所が荒地として広がっています。この数年後には東口のロータリーが整備され、この荒地も無くなります。

九十九里鉄道東金駅に存在した転車台は駅の大網方にあり、前進しかできなかった車両の転回に使用されていました。残念ながら、空中写真には確実に転車台といえるものは写っておらず、おそらくこの辺りであろう場所を図示しています。(ジッとみていると薄っすらと円い輪郭が見えてくるような、見えないような…)


話は変わりますが、九十九里鉄道の車輛は廃線後に東金駅に集められていました。船橋ヘルスセンターの遊覧鉄道に使用される予定だったと言われていますが、結局実現しないまま車輛は解体されてしまいます。
1970年頃まではかろうじて車体が残っていたようですが、1975年の時点では茶色い屋根の貨車2輌(有蓋貨車のケワ50とケワ52)のみが残っている状態だと分かります。

また、ケワ52の右側に白い車輌の様なものが3つ見えますが、これは解体されてしまった車輌の残骸(ひっくり返された屋根)です。一番右側はキハ102の屋根であることは分かっているのですが、下側の2つはよく分かりません。キハ103やキハ201でしょうか。


東金駅についてはまだ分からないことも多く、今後も調べていこうと思っています。

上総片貝駅

USA-M170-319を加工(1952年)

東金駅と同じく、九十九里鉄道の上総片貝駅です。1952年の空中写真で、現役の頃。写真左側が東金方(南側)で、中央が駅です。

上総片貝駅には九十九里鉄道の木造車庫がありました。その車庫の海側に転車台があり、写真で拡大している黒円が転車台です。

上総片貝駅廃線後にバス発着場(現在も片貝駅バス停)となり、跡地はバス車庫(転車台自体は撤去されて藪地の中?)となっています。


以上、番外編でした。終わり。
※空中写真は全て国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」より。

千葉県の転車台紹介②

転車台の空中写真、続きです。
①⇒千葉県の転車台紹介① - norehero-19の日記


蘇我支区

CKT7413-C24A-9を加工(1975年)

蘇我駅の南側、内房線に沿ったところに新小岩機関区蘇我支区が置かれており、転車台も設置されていました。
電動下路式20m。
千葉駅西側の千葉機関区廃止後、機関車の転回はここか千葉気動車区の転車台で行われたそうです。

この転車台は駅から離れていたせいもあるのか、なかなか情報が無く詳細が分かりません。おそらく1960年頃に設置され、1975年以降に撤去されたと思われます。わずか20年弱の存在期間です。

跡地はJR貨物の千葉機関区となっています。



大網駅(大網駐泊所)

USA-M209-194を加工(1952年)

空中写真は移転前の旧大網駅です。北東側が東金方、南西側は左に蘇我方、右に茂原方と線路が分かれて伸びています。

転車台が設置されていた駅はその多くが明治や大正時代の開業であったため、転車台のサイズは40フィート(12.2m)や50フィート(15.2m)が中心でした。
1896年に開業した大網駅にも15.2mの転車台が設置されており、房総東線と東金線の分岐駅として機関車の転回が行われていました。
空中写真ではよく判別出来ませんが、下路式ではないでしょうか。

大網駅

CKT7413-C29A-39を加工(1975年)

大網駅の転車台」といえば、こちらの方が有名ですね。

電動上路式20m。汽車製造株式会社製。自重27t・荷重145t。1953年4月設置。
写真は1975年であり、既に大網駅は南側の新駅に移転しています。旧駅の駅舎等はまだ残っていますが、転車台へ通じる線路は剥がされているように見えます。


この転車台は日本初の三点支持型として新設されたものです。
三点支持型はバランスト型の問題点であった重心の偏りによる回転抵抗の増大を軽減させることを目的に開発されたもので、中央支点以外に円周上の2点でも荷重を受けているのが特徴です。円周上で荷重を受けるので、転車台坑の円周には支えとなるガイドローラーが乗る円形軌条が敷かれていました。

また、当転車台は電動駆動ですが、停電時も転回が可能なように「大友式駆動装置」も補助装置として設置されていました。大友式駆動装置は蒸気機関車の圧縮空気が動力の駆動装置で、駆動時の動きから尺取虫と呼ばれています。

大友式補助駆動装置(小樽総合博物館)

写真は小樽市総合博物館の転車台の大友式駆動装置(私が撮影した映像のキャプチャーなので少々荒いですが)。現役のため、気になる方は小樽へ!


大網駅の話に戻りますが、大網駅移転後の転車台は写真の様に放置されていました。1980年前後に撤去されて、現在の跡地は草地となっています。正直、設置の経緯からどうにかして保存できなかったのかと思っています。

勝浦機関区

CKT7414-C18B-22を加工(1975年)

勝浦駅の転車台は電動上路式18.5m。
当時、勝浦駅には勝浦機関区が設置されていました。ただし、写真撮影された1975年に勝浦運転区となります。

勝浦運転区は木原線用のキハ35系が配属されており、検査等があるときは毎回、大原から勝浦まで回送していたそうです。

安房鴨川駅

USA-M464-2-57を加工(1955年)

1955年、房総東線と房総西線の終点であった安房鴨川駅です。上が勝浦方、下が館山方。
この駅にもかつては転車台が設置されていました。
18.3mであったようですが、詳細は不明です。

おそらく北条線の単独駅として1925年の開業時に設置されたと思います。記載の空中写真は1955年ですが、この時点で転車台坑のみ、桁は存在していないように見えます。
現在、跡地は駐車場になっています。

館山機関区

MKT635X-C3-3を加工(1963年)

今回記事最後は館山駅。電動上路式18.0m。
撮影された当時は館山機関区が設置されていました。

館山駅は1919年の開業時は終着駅でしたので、この際に転車台が設置されたと思われます。館山機関区の転車台として運転区となる1969年頃まで使用されたのでしょう。

ほかにも

以上、現役1件・廃止12件の転車台を紹介しましたが、千葉県には他にも転車台が存在していた駅があります。

また、成田ゆめ牧場の羅須地人協会まきば線には現役のターンテーブルが存在しています。千葉県の現役転車台は木更津駅のみではない


最後に余談ですが、国鉄時代に千葉鉄道管理局が発行した『千葉鉄道管理局史』(1963年)には、当時の主要駅「11ヶ所」に転車台が設置されていたと記述(429頁)されています。

このカウントは千葉局管内のため、東京北局の我孫子駅を除くと、執筆時の1960年初め頃で現役転車台が設置されていた駅は以下の通りと予想できます。

  1. 両国駅 
  2. 新小岩駅(後の新小岩操駅)
  3. 千葉駅(千葉気動車区?)
  4. 佐倉駅
  5. 銚子駅
  6. 成田駅
  7. 蘇我駅
  8. 木更津駅
  9. 館山駅
  10. 大網駅
  11. 勝浦駅

千葉は「11駅」に気動車区を含めるのか不明ですが、千葉機関区は1961年廃止のため該当しないはずです。安房鴨川駅は当時既に撤去されていたと思われるため、上記のようになります。管理局史のどこかに載っていたらご指摘ください。


転車台は意外に資料が少なく、まだ分からないことが多いですが、追記できることがあれば加筆していきたいと思います。

終わり。
※空中写真は全て国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」より。

千葉県の転車台紹介①

余りの暑さにどこに行く気も起きないので、こたつ記事ならぬ、冷房記事…。

今回は千葉県に存在する/した転車台を空中写真で紹介します。

 

まずは現役転車台から。

※空中写真は全て国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」より。

 

 

木更津駅

CKT20193-C24-23を加工(2019年)

トップバッターは千葉県の現役転車台である、木更津駅の転車台。

手動下路式のバランスト型、18mです。

この転車台はGoogle mapやYouTubeで調べて見た方が断然分かり易いです。

 

↓千葉支社公式の回してみた動画

www.youtube.com

 

設置時期は昭和初期です。おそらく久留里線狭軌に改軌された1930年頃でしょうか。

下路式かつ手動のため、設備は最小です。久留里線の存在もあるのかもしれませんが、このコンパクトさが現代まで残っている理由でもある気がします。

 

以下からは全て過去に存在した転車台。

 

千葉機関区

MKT617-C7-4を加工(1961年)

千葉県下最大の機関区であった千葉機関区の転車台。電動下路式20m。

拡大するまでもなく分かる扇形庫と転車台の偉容。工事中の新・千葉駅や京成本線の旧線も写っています。

 

千葉機関区は総武鉄道開業時からの名門機関区でしたが、1963年の千葉駅移転前、1961年に廃止されています。転車台跡地はJR千葉支社の敷地となっています。

 

 

千葉気動車

CKT7413-C19-9を加工(1975年)

次は千葉気動車区の転車台です。電動下路式20m。

 

1954年開設の千葉気動車区に設置されていた転車台は、稲毛側から進入する配線でした。

20m級なので気動車の転回はもちろん、C57も回したそうです。

気動車王国」を築いた千葉気動車区は写真撮影年の1975年に閉鎖され、現在は複々線の用地と公園になっています。転車台跡地は道路。

 

 

佐倉機関区

MKT663X-C5-21を加工(1966年)

佐倉機関区はDD51やDE10などが配属され、ディーゼル機関車の機関区として有名ですが、かつては転車台をもつ蒸気の機関区でした。

電動上路式20m。無煙化により構内改良が行われ、転車台は1970年頃に撤去されたようです。

 

佐倉機関区は千葉機関区廃止後に千葉県唯一の機関区となります。そんな佐倉機関区も新茂原からの貨物列車廃止後に閉鎖され、跡地は駐車場となっています。

 

 

銚子支区

CKT7413-C10B-15を加工(1975年)

総武本線の終点である銚子駅に設置されていた転車台。電動下路式18m。

空中写真は貨車がたくさん止まっているのが印象的です。まだこの頃は新生駅や醬油工場の専用線が現役でした。

 

転車台は戦前から有り、佐倉機関区銚子支区として蒸気の配属もあった銚子駅ですが、1978年の新生駅廃止の頃に撤去されました。

 

 

成田機関区

MKT693X-C9-6を加工(1969年)

成田機関区は成田鉄道開業時に設置された成田機関庫がルーツの機関区です。

電動上路式18mの転車台も設置されていましたが、佐倉~成田間が電化された1968年以降に撤去されたようです。

 

空中写真も何だかアヤシイですが、この場所に設置されていたのは間違いありません。

 

 

我孫子支区

CKT7412-C60A-5を加工(1975年)

我孫子駅にはかつて田端機関区の我孫子支区が設置されていました。

転車台は電動上路式18m。

 

主に我孫子支線の機関車転回用でしたが、常磐線複々線化を機に行われた構内配線変更により1970年頃には使用されなくなったようです。空中写真は1975年ですが、放置されている状態です。

転車台跡地はマンションになっています。

 

②続く⇒千葉県の転車台紹介② - norehero-19の日記

成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道③

成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道② - norehero-19の日記
の続きです。
①では地図、②では航空写真を使って貨物軌道にアプローチしてきましたが、最後は文献編です。

「貨物軌道」の正体を求めて

「貨物軌道」がナニモノであるのか、まずは京成電鉄関係の書籍を調べてみました。

旧版地図に貨物軌道が描かれた1928年近くの出来事といえば、1926年(大正15年)に京成本線津田沼〜成田間延伸がありました。仮に工事用の仮設鉄道であれば京成関係の資料から情報が得られるのではないか?と思ったためですが、結果から言うと全く手掛かりは掴めませんでした。

京成本線の成田延伸について触れている書籍はいくつかありますが、大概は成田花咲町駅での仮開業の話題が中心であり、特に一番期待していた『京成電鉄五十五年史』でも延伸工事の詳細までは書かれていませんでした(実は書いてあったらゴメンナサイ)

ここまで情報が何も無いとすると、この「貨物軌道」は京成電鉄にとって禁忌であり、開けてはならないパンドラの箱ならぬ、パンドラの廃線…などと意味不明なことを考えて、この廃線の存在を忘れようとしていましたが、最後の最後に閃いてしまったのです。
地元の歴史は地元の人のみぞ知る、つまり、


酒々井には「町史」がある…!


この発想の転換?が功を奏し、遂に『酒々井町史』から「貨物軌道」の正体に迫ることができたのです。
町史の第四節第二章「鉄道」で京成電鉄津田沼~成田間延伸時について述べている箇所を次節で紹介します。

「貨物軌道」は京成本線の…

津田沼・成田間は延長31.6キロメートル、工事は大正14年10月、六工区に分割、同時に工事着手した。佐倉・酒々井間は第五工区で水野組が請け負い、酒々井・成田間は第六工区で田島組が請け負った。両組とも事務所は卜ヶ崎に設けて着手した。工事に必要な機材は、国鉄酒々井駅より大鷲地区まで貨物引き込み線をつくり、貨車で運搬した。

引用元は『酒々井町史 通史編 下巻』(酒々井町史編さん委員会 編、1987年、155頁)


この一文から、京成本線成田延伸の工事は、成田線酒々井駅から「貨物引き込み線」を設置して施工したことが分かります。
欲を言えば引込線の軌間も分かれば面白かったですが、それを町史に求めるのは酷ですね。


「貨物引き込み線」について、この文章の続きにはルートについても詳細が書かれていますので、そのポイントを箇条書きにしてみます。

  • 駅から酒々井字所城(中央台一丁目)の山を切り拓いた。
  • 中川から卜ヶ崎付近を通った。
  • 大鷲に至る約1キロメートル間を借地して造成した。
  • 大鷲地区は機材集積の拠点となった。

実際の文章には町史だけあって、現代だと個人特定に繋がるような情報も載っていますので、その辺は省略しています。


まず、最初の地図を使って地名の場所を確認します。

酒々井町の地名(今昔マップを加工)

まず、所城は酒々井の旧地名で、現在は括弧書きにもある通り、中央台一丁目となっています。上図でいうと、酒々井駅北側の郵便局周辺となります。
中川、卜ヶ崎(ぼっけざき)、大鷲は地図に丸囲みした場所です。


次に、前回の航空写真を使ってルートを再び確認してみます。

1946年(昭和21年)航空写真を加工(USA-M44-A-5VV-289)国土地理院

青線および青破線は「貨物軌道」、オレンジ文字は地名のおおよその位置です。緑文字はルート詳細にあった「山を切り拓いた」場所と、「機材集積の拠点」を示しています。

改めて航空写真を見ると、「白い土地」が所城の山を切り拓いて造成されていることが分かります。中川から卜ヶ崎を経由していることも文章の通りといえましょう。
しかし、大鷲地区周辺は「白い土地」もなく、「機材集積の拠点」となったであろう場所も特定できません。廃線跡も推測線です。


なぜ、中川を境に廃線跡が消えてしまうのか?


実は、この理由も町史には書かれていました。
最後に、工事終了後の貨物軌道についての一文を引用します。

中川地区の敷地は線路撤去後、そのまま返還をうけ、畑地としたのに対し、上岩橋地区は原形に戻して返還をうける契約となっていた。

引用元は『酒々井町史 通史編 下巻』(同上同頁)


この文中、上岩橋地区とは、卜ヶ崎・大鷲の大字です。つまり、この両地区の区間に限って、貨物軌道跡は工事前の状態に原状回復されたということです。
廃線跡を確認したのは1946年の航空写真であり、工事終了後すぐに戻されたのであれば20年後に残っていないのも納得できる話です。
逆に、畑地となった廃線跡は20年後も残っていたのだから、スゴイといえるのではないでしょうか。

まとめ

2016年(平成28年)航空写真を加工(CKT20161-C8-12)国土地理院

まとめとして、現代の航空写真に「貨物軌道」跡を描いたものを載せます。
なんせ100年前の廃線ですし、過去と現在で土地形状が全く違うため、完全にトレース出来ていないと思いますが、雰囲気は感じ取れると思います。


今回の「貨物軌道」、京成本線の工事用鉄道ということは分かりましたが、まだまだ不明点はたくさんあります。

  • 軌間
  • 動力
  • 存続期間
  • 成田線と直接繋がっていたのか
  • 資材集積の拠点位置

今後課題として、地元史料のほかにも、鉄道省文書(酒々井駅の貨物発着記録なども見つかれば)や実際の工事記録から、これらを紐解いていければと思います。ホントは京成電鉄サイドの史料がみたい


「貨物軌道」

  1. 酒々井駅京成酒々井駅北側(延長約1km)
  2. 貨物専用線
  3. 1925年(大正15年)~1926年(昭和元年)頃


以上、成田線京成本線を繋いだ酒々井の鉄道を紹介する話でした。終わり。