norehero-19の日記

千葉県の鉄道などについて記します。

グランドサーキット・レースウェイとスカイウェイ

ディズニーランド

新津田沼駅の記事を書きかけながら、閑話休題的なディズニーランドの記事です。


我が家のホームビデオから、かつて存在したグランドサーキット・レースウェイとスカイウェイの写った動画を発掘したので、そのキャプチャ画像を貼り付けます。

ちなみに、入口とかの画像とかは全くない、低画質。たった4枚。
検索をすればもっと高画質な画像や動画を公開している方がいます。

以下全て1998年9月のものです。

スカイウェイ
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スカイウェイ①

グランドサーキットから。スカイウェイは撮影日の2ヶ月後、1998年11月の終了。

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スカイウェイ②

ガジェットのゴーコースターから。
シンデレラ城の手前は2017年10月に終了したスタージェット

おわり

新津田沼駅の変遷を探る①~S字カーブと跨道橋~

新津田沼駅の話

今回は新京成電鉄の「新津田沼駅」のお話です。
新津田沼駅が現在の場所にある理由・その前後が急カーブとなっている理由を、このブログお得意の航空写真でたどってみたいと思います。

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新津田沼駅

「S字カーブ」は鉄道連隊由来?

新津田沼駅といえば、京成津田沼駅との間にある「S字カーブ」が有名ですね。
最近ではテレビや鉄道系のネットニュースで取り上げられることも多いです。

地図で見てみると、Sと逆S字が合わさったカーブだと分かります。まとめて「Ωカーブ」というときもあります。
津田沼京成津田沼間の曲線半径は一番キツイ京成津田沼駅付近で120mだそうです。

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新津田沼駅周辺(地理院地図を加工)

このS字カーブ、調べが甘い記事なんかだと新京成線の歴史に従って「鉄道連隊」の旧線跡を再利用してると書いてしまっていることがありますが、実際のところ、それは半分本当で半分間違いになります。

半分本当というのは、新京成線総武線を跨ぐ跨線橋だけ鉄道連隊時代に架橋されたものなので、この跨線橋のみ鉄道連隊由来です。
そして、新津田沼京成津田沼間のうち、跨線橋以外は戦後に新京成電鉄が新しく建設した線路になります。

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新京成が戦後に建設したのがピンク線。鉄道連隊由来の跨線橋は赤丸。雑なのは許せサスケ。

いわば、このS字カーブは跨線橋京成津田沼駅をムリヤリ繋げるために誕生したわけですが、これだけだと新津田沼駅の位置が現在の場所にある理由になっていないので、新津田沼駅を取り巻く環境の変化を明治時代から順に紹介します。


明治時代

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今昔マップを加工

1910年(明治43年)頃の津田沼駅周辺です。右の地図は「迅速測図」といって1886年明治19年)に明治政府が作成したものです。

津田沼駅の北側に鉄道連隊の「材料廠倉庫」、南側に「鐵道兵営」「作業場」があります。南東側には総武本線(以下、緩急の区別をつける以外は総武本線とします)から分岐して千葉に至る「軍用鐵道線」が伸びています。

京成電鉄はまだ未開通でした。戦後にできた新京成電鉄も当然ありません。


この地図を見てわかることは、津田沼駅周辺はもともと畑しかなく、駅開業後も鉄道連隊の施設しかなかったということです。

津田沼」という地名は「谷津」「久々田」「鷺沼」の各村から一文字ずつを取った合成地名で、由来になった3村は駅の南側にあります。3村のうち、当時一番人口が多かったのは久々田村だったそうですが、駅に繋がる道路はなぜか谷津村に繋がっています。

なぜこの場所に津田沼駅が開業されたのかについて、確かな情報はありません。
ですが、一説によると、陸軍の軍人が軍用鉄道線の先にある騎兵連隊営や習志野俘虜収容所へ通いやすくするために駅を設置したようで、初めから集落のためだった訳ではないようです。この説が正しいとすると、駅利用者の多そうな久々田村に駅が近くない理由も納得できます。
もちろん、津田沼駅周辺は河川によって土地の起伏が激しいので、そういった地理的条件も考慮する必要があると思いますが。


話が逸れました。つまり、津田沼駅周辺には人家が少なく、鉄道連隊の演習場を展開できる広大な土地が広がっていたということです。
ここから現在の新津田沼駅が開業するまであと60年ほど。


大正時代

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今昔マップを加工

1921年(大正10年)頃の津田沼駅周辺です。
京成電鉄が開業して、久々田に現在の京成津田沼駅が開業しています。こうやって改めて古地図で確認すると、津田沼駅が何も無い中に開業したのに対して、京成津田沼駅は人口密集地に駅を開設したことが分かりますね。

津田沼駅に戻ると、津田沼駅北側(驛前)が発展しています。軍人を相手にした商店などで賑わっていたそうです。
鉄道連隊は1918年(大正7年)に2連隊制となり、津田沼は「鉄道第二連隊」となっています。

そして、この地図では総武本線を跨ぐ鉄橋が架けられていることが確認できます。
新京成電鉄はまだ誕生していませんが、S字カーブのきっかけとなる京成津田沼駅と跨道橋は大正時代まで遡ることができるわけです。

製作年・製作者不明の跨線橋は鉄道連隊演習線跡

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跨線橋の周辺拡大

跨線橋は鉄道連隊が「鐵道二倉庫」と「作業場」を結ぶために架橋したものです。1911年(明治44年)に軽便鉄道用(600mm軌間)の鉄橋が架けられましたが、標準軌(1435mm軌間)の機関車を通すために1934年(昭和9年)頃に架け直しが行われました。

どこで製造されたのか不明正確な架橋年月日が不明という正体不明な橋ですが、総武本線が電化される前(1934年頃)というのは分かっているので、架橋されてから約90年が経とうとしています。

それでも電車が日夜通ることができるのは新京成による日々の保守のおかげですが、鉄道連隊⇒新京成へ引き継がれるにあたって、2つの偶然が重なっていたことも大きな要因といえます。

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総武線乗越橋梁」と跨道橋

左が総武本線を跨ぐ新京成線の「跨線橋」。昔は「新京成電車」と書かれていた。右の跨道橋は戦後のもの。

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道路側の橋台はコンクリート

戦後の道路拡張時に替えられた橋台は複線分の幅があるが、橋桁は単線分。

①線路の幅が一致

上記で述べましたが、跨線橋は鉄道連隊が標準軌(1435mm)機関車を通すために架け替えたものでした。新京成電鉄がこの跨線橋を使い始めるのは1953年(昭和28年)からで、藤崎台駅から京成津田沼駅に接続するときでしたが、当時の新京成線は1,372mm(馬車軌)だったので、問題ありませんでした。

新京成線京成電鉄に先駆けて1959年(昭和34年)に1435mmに改軌しますが、跨線橋が撤去されることなく改軌に対応できているのは標準軌規格だったからだといえます。

5線分の広大スパン

この跨線橋総武快速線総武緩行線幕張車両センターへの出入区線の計5本の線路を跨いでいます。戦前の総武本線は複線分しかなかったのにもかかわらず、架橋当時から長大スパンであったため、1981年(昭和56年)、津田沼~新検見川間の複々線化時も、撤去されずに済みました。

なぜ鉄道連隊は長い橋を架けたのか?

わざわざ疑問形にしましたが、古地図を見ればその謎もすぐに解けると思います。
跨線橋の下には総武本線に平行して鉄道連隊演習線も通っていたからですね。

架橋当時、総武本線に平行して、山側に鉄道連隊演習線の標準軌と軽便軌が各1本(合計2本)敷かれていました。
また、千葉方面へ向かう総武本線と、大久保方面へ向かう演習線は勾配が少し異なっており、両線の間にはちょっとした段差があるなど、跨線橋の下は4線+αの空間が広がっていました。

そのため、昭和初期に架けられた跨線橋を当時のまま現在も使用することが出来ています。
レンガ造りの橋台も当時のままですが、南側の橋台と跨道橋は戦後の道路拡幅のために撤去・交換されています。

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跨線橋の下を潜る線路の変遷(配線図エディタで作成)

跨道橋の下を通っている線路の変遷を図にしたものです。
戦後、鉄道連隊演習線跡を陸上自衛隊国鉄が使用しており、その時は狭軌線路1本が敷設されていましたが図では省略しています。

まとめ

津田沼京成津田沼間のS字カーブは鉄道連隊演習線跡をそのまま再利用したものではなく、跨線橋を通って京成津田沼駅を結んだために生まれたものでした。
このカーブが原因で、新津田沼駅は4回も開業と廃業を繰り返すことになります。

続く。

鉄道連隊演習線に繋がるアヤシイ路線の話⑤

千葉陸軍兵器補給廠専用線について、以前に記事を公開してからさらに分かったことを紹介します。
ただ、何か新しいことが分かった訳ではないので、ただの補足のようなもの。

以前の記事は⇒鉄道連隊演習線に繋がるアヤシイ路線の話① - norehero-19の日記


なお、千葉陸軍補給廠は名称が都度変わっていますが、ややこしいので補給廠に統一します。


補給廠線が描かれた地図

下図は、国立公文書館の史料『公文雑纂・昭和十六年・第九十八巻・都市計画二十一』のうち「千葉都市計画北部土地区劃整理決定ノ件」に添付された地図です。
この史料、名前の通り千葉駅から北側の土地区画整理についてのものですが、ちょうど補給廠線が収まる範囲の地図を載せています。

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「千葉都市計画北部土地区劃整理決定ノ件」から加工して転載

地図は東側が上を向いています。右側に旧千葉駅があり、すぐ下に千葉機関区の扇形車庫が描かれています。
弁天町の綿打池を左右に通る線路は鉄道連隊演習線で、下志津支線が分岐しています。

総武本線から分岐して「松波町」に分かれている線路が補給廠線です。この線路をよく見ると、総武本線とは完全にくっつかず、並行しながら旧千葉駅と扇形車庫の間にある「軍用千葉駅(□)」で鉄道連隊演習線と接続しています。

この地図からも、補給廠線は旧千葉駅ではなく、軍用千葉駅を拠点にしていたことが分かります。


ちなみに、すでにいろいろな地図を載せているのでご存じだとは思いますが、この地図のように軍事施設を空白にして何も描かないことを「戦時改描」といいます。
この地図の場合、鉄道第一連隊や材料廠、歩兵学校など、軍関連施設は全て「無いこと」になっています。真っ白いエリアがあからさまなので怪しさは際立っていますが。
ただ、演習線などの鉄道はきちんと描かれているのは面白いところです。軍所有といえども鉄道は軍事施設ではないということなのでしょうか?


軍用千葉駅≒千葉駅構内軍用ホーム?

第③回は「軍用千葉駅」と「千葉駅構内軍用ホーム」はどの場所を示すのか?という疑問を投げ、前者は鉄道連隊の駅、後者は省線千葉駅(旧千葉駅)に軍の専用ホームがあったのではないか。
と推測しましたが、後者も前者と同じ鉄道連隊の駅のことを指していると感じてきました。

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第③回と同じ千葉駅の航空写真


というのも、『鉄道ピクトリアル』2020年9月号(№977)に、昭和12年(1937年)と昭和36年(1961年)の旧千葉駅の配線図が掲載されており、それを見る限り、鉄道連隊演習線(材修場線)は千葉駅構内線と連絡線一本のみしか接続されていないからです。


ただ、そのまま配線図を転載するのは気が引けたので、廃線略図エディタさん(https://raildiag.uxm.jp/)で両年の配線図を作成しました。詳しい配線図はネットで検索すれば新旧の千葉駅を掲載している方がいるので探してみてください。

昭和12年千葉駅(昭和12年3月) | Railroad Wiring Diagram Editor
昭和36年千葉駅(昭和36年) | Railroad Wiring Diagram Editor


どちらの配線図も補給廠線がリアルに接続されていた戦中時代のものではありませんが、両配線図は旧千葉駅であり、配線自体もほとんど変わっていないことから、当時の様子を知れる貴重な資料です。

戦前も戦後も、旧千葉駅は配線がほとんど変化していなかったことを踏まえると、戦中だけ軍専用の貨物ホームがあったとは考えにくいため、「軍用千葉駅」と「千葉駅構内軍用ホーム」はどちらも鉄道連隊が使用していた軍用千葉駅のことを指していると結論します。


文献に記載された補給廠線

補給廠線は地図や鉄道省文書といった史料にしか登場がなく、本当に実在したのか疑わしく感じる?路線なのですが、実は『松波のあゆみ』(松波町史編集委員会、平成9年7月、ISBNの設定なし)という本に補給廠線について言及している文があります。
「軍用物資輸送の軍軽便鉄道を敷設」(118頁)という項の一節で、ちょっと長いですがそのまま引用します。

戦時中、千葉駅軍用ホームより西へ総武鉄道に平行して、現松波一丁目を過ぎたあたりから右折し、京葉銀行㈱西千葉支店の西側脇より県営住宅に向かう。そして材料補給廠(現轟町経済高校)へと進み、それより犢橋から習志野原鉄道第二連隊へ。

文中、松波の京葉銀行西千葉支店は2020年にみどり台に移転しましたが、現在も西千葉出張所として残っています。また、轟町経済高校は千葉経済大学付属高校のことです。
けっこう特徴的な半円カーブについて触れられていないのは悲しいですが、松波地区ではないため気にしないことにします。

上記の文から、今まで扱ってきた補給廠線は幻ではなく、きちんと地域に認識されていたといえるのではないでしょうか。

2022年に向けて

今年はブログを立ち上げて、へったくそな文章と画像を投稿してきましたが、2022年も引き続き千葉の廃線未成線を取り上げていければと思っています。
構想として、まずは飯岡軌道や小湊鉄道といった未成線を中心に取り上げていき、技術力も向上させたいと思っていますので、2022年もよろしくお願いします。

柏陸軍飛行場建設用鉄道

このブログの主旨?に基づいて、今回は廃線の紹介。
できれば現地にちゃんと行って調べて来れれば良いんだけど、今回も例によって地図と航空写真だけでお茶を濁します。
そして、有名どころはそれだとさすがに手抜き感が強いので何とも言えないマイナーなものをチョイス…。

飛行場建設用鉄道

千葉県は戦前や戦中、東京を空襲から衛るために、陸・海軍の飛行場が多く建設されました。
戦後、その多くは農地や工場用地となっていますが、一部は自衛隊基地として現代に残っているものもあります。

そんな軍用飛行場を建設するために、当時は安定的に資材を供給できる手段として鉄道を敷設して工事を行いました。
”鉄道”といっても、中には軽便軌間であったり手押しトロッコであったり、そのレベルは様々だったようです。

飛行場完成後、建設用鉄道は人員や飛行機資材等の運搬用に使用されるパターンもありましたが、その多くは目的を達成したということで撤去されています。

今回取り上げる廃線は、飛行場の完成後に撤去されてしまった建設用鉄道です。


柏陸軍飛行場とは?

「柏陸軍飛行場」は、かつて柏市に存在した陸軍の軍用飛行場です。
ロケット戦闘機「秋水」の試験飛行場として有名です。

1938年に完成し、戦争中は帝都防衛の要として活用されましたが、戦後に米軍の占領を受けています。
返還後は「柏の葉」として開発され、「飛行場」を感じられる遺構は全くありません。
秋水用の燃料庫が数基残っていますが、破壊されてしまったものもあります。


柏飛行場には戦前に建設されたということもあってコンクリート舗装の滑走路が1本ありました。
長さは1,500mあり、陸軍の戦闘機が飛び立つのに十分な長さです。


まあ、詳しくはWikipedia参照ということでお願いします。
柏飛行場 - Wikipedia


現代地図と比較してみる

下図は今昔マップを基に柏陸軍飛行場のおおよそ範囲を描いたものです。
(微妙にイビツで合ってないし誘導路がはみ出しているのは許して)

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今昔マップを加工

左図は昭和27年(1952年)、右図は現代。

戦後、柏飛行場は廃止され、諸施設を米軍が占領している以外は農地として開墾されていました。
滑走路は「旧滑走路」として地図に描かれていますが、実際はコンクリート舗装が剝がされていたようです。

また、飛行場には滑走路に付随して平行、東、西、北の各誘導路がありました。航空写真だと何となく分かるのですが、地図だとさっぱり分かりません。


こうして現代の地図と見比べてみると、飛行場敷地内はほとんどが官公庁の施設や学校、公園となっており、広い敷地を有効活用していることが分かります。


廃線跡

ここで本題の廃線跡ですが、柏飛行場は線路路盤を西誘導路として転用したようで、残念ながら戦後の開発によって誘導路もろとも現代には残っていません。

柏飛行場は1938年に建設が始められ、その年のうちに完成しているので、鉄道は少なくともわずか半年程度しか稼働していなかったことになります。


では、当時どこに鉄道が敷かれていたのかを確認してみます。

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今昔マップを加工

地図は先ほどの柏飛行場と同じ時代で、やや西よりです。
東武野田線が南北に、常磐自動車道が南から東へ貫いています。

飛行場建設用鉄道は東武野田線の運河駅から敷設されており、途中で野田線から離れて飛行場まで向かっていました。
野田線とは単線並列だったそうで、建設は鉄道連隊が行ったようです。
(運河駅~初石駅間の複線化が東武野田線の中でも早期に行われたのはこの線路のおかげ?)

ただ、肝心の廃線跡はというと、何も知らないでこの地図から見つけるのは超高校級の地図好きでもたぶん無理です。

もったいぶっていますが、順序良く次は航空写真を貼ります。

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1947年(USA-R393-156)

国土地理院の「地図・航空写真閲覧サービス」を加工して、運河駅を図示。

こうしてみると、やっと廃線跡を確認することができると思います。
運河駅の南側、北から東へ向けてカーブする道路がありますが、これが廃線跡です。


この航空写真には西誘導路跡も写っているので、廃線跡とそれも合わせたのが下図です。
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建設用鉄道は西誘導路として活用されるため、途中から線が重なります。
鳥瞰してみると建設用鉄道は北から伸びる谷津を避けて建設されていると感じますね。

終点はどこか。

始点が運河駅だとすると、終点はどこになるのでしょうか。
もちろん飛行場なのですが、飛行場のどの場所まで線路が敷かれていたのかは定かではありません。
何となくこの辺りじゃないかな?って所まで線を引いたのが下図です。

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1947年(USA-R393-155)

先ほどの写真の東側です。コンクリート舗装された白い滑走路跡が目立ちます。

オレンジ線部は土地が開けていて誘導路跡として確認できるのに対して、黄色線部は農地として開拓されているため、廃線跡どころか誘導路跡も分からなくなっています。

もしかしたら途中で南下して平行誘導路の方まで線路が伸びていた可能性もあります。
真の終点は頑張って調べてチャンとわかったら更新します…。


江戸川台の道路がほぼ一致

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2019年8CKT20192-C3-14)

現代に廃線跡を重ねてみる。
戦後の写真と比べるまでもなく完全に住宅街として発展しているけど、いくつかの道路は過去と変わらない。
東武野田線との分岐部は推測になるけど、カーブ終端から東に向かう道はそのまま道路となっていると考えて問題ないと思う。

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1997年(CKT20192-C2-15)

赤い透過が飛行場、青い透過が滑走路。現代だと常磐自動車道より東側がよく分からない形になっている。

まとまらないまとめ

当鉄道は飛行場の建設のためだけの短い期間しか使用されなかったため、そもそも建設されなかった(未成線)という話もあるようですが、
実際に蒸気機関車が走っていたという話もあるため、おそらく実際に運用されていたでしょう。
軍用施設のため、その辺の細かい情報は出回らなかった気もします。

また、軽便鉄道(鉄道連隊施工なら600mm?)と言われていますが、東武野田線から資材を積み替えていたのでしょうか?
もう少し地域史や鉄道連隊の史料に当たれば答えが見つかるかもしれませんが、どうでしょうか。


参考文献は『柏にあった陸軍飛行場』です。

 

松代と小諸に行ってきた③

小諸を後にして、最後の目的地、龍岡城へ向かう。

臼田駅

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臼田駅

臼田駅です。いい駅です。
龍岡城へは隣の龍岡城駅より臼田駅の方が近いので、ここから歩いていきます。


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かつて2面3線あった配線も1年前に交換設備が廃止されており、今は1面1線になっています。

線路設備は最近工事したばかりなのか、いろいろ残ったままになっていました。
効率化のためなら容赦の無い東さんですが、保線線路ごと引っぺがすのは大胆だ…。

旧貨物ホームは大丈夫そうだけど、待合ベンチのある島式ホームは今後撤去しちゃうのかな。
線形改良も兼ねて乗り場ホームの拡張とかやるかもしれませんね。

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日本で海から1番遠い地点から10km地点

龍岡城に向かう道中の交差点。「日本で海から1番遠い地点」は山の中にあるそうです。

龍岡城

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だらだらと歩いていたら着きました。龍岡城です。
ここは日本で2ヶ所しかない、☆の形をした星形要塞、つまり五稜郭です。
龍岡っていうのはこの辺りの字名らしいですね。

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入口

ただ、「城」といいつつ、実際は龍岡藩の陣屋だったので、規模はそこまで大きいわけではない。
また、城内は小学校となっていますが、2022年度で廃校となるそうで、廃校後は校舎を取り壊して、当時の状態に復元する計画があるようです。
ここの大手門跡も、もしかしたら門が復元されるかもしれません。

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田口招魂社
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立派な銀杏の木
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御台所

城内での現存遺構である御台所。もともとは城内の中心辺りにあったのを移築している。廃校後はもとの場所に戻す予定らしい。


休日だったので小学校はお休みだったけど、やっぱり校内にいるという気持ちはドキドキするので、早々に退散。
であいの館に寄った後、次は山を登ったところにある展望台を目指します。

やっぱり星形といっても、地面で見ててもよく分からない。ここまで来たからには上から見ないことには帰れない。
いや実際歩いていたら、道路や堀の形でなんとなくわかるけど。

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佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館

写真の時点でめっちゃ眩しい。この時点でたしか15時くらいです。

展望台へ

龍岡城が見渡せる展望台へは車でも行ける林道ルートと徒歩でしか行けない登山ルートがあります。
勾配的に楽なのは林道ですが、城からは回り道になるので直進的に行くには登山ルートが一番早いです。
ただ、登山ルートは地図に描かれていないので、であいの館で案内図をもらいました。



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展望台への道、入口

最初からこれ。
道を間違えたかと思ったけど、よく見ると「展望台↑」って紙が貼ってあるので行くしかない。前途多難感が半端ないですが、人は通っても大丈夫なので奥へと進みます。


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次はどっちだ…って思う頃に矢印くんがいるので迷わない。

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柿の木

案内図に描かれている柿の木チェックポイントまできた。登山道はこのまま真っすぐです。


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登山道はよく整備されていて、道が見えるので迷うことはないです。看板もときどきあるので大丈夫。
ちなみに写真だと分かりにくいですが、めちゃくちゃ急勾配です。

撮ってないですが、登山道入ってしばらくはお墓があります。また、石垣が組まれている平場があったり、炭焼き窯の跡もあったりと里山を感じられる。


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この九十九折の上が林道。
今回はちゃんと山登れる靴で行ったけど、スニーカーとかで登ってたらダメだったな。

あと、今回は秋だから藪も虫も心配なく登れたけど、他の季節ならもっと対策していかないとヤバイと思いました。


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登山道を登り切って、林道まで来れた。逆コースだったら絶対こんな道入っていかない。


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林道をしばらく歩くと、また小道に入っていくルートになります。展望台はもうすぐそこですが、途中に三角点があります。
龍岡城からここまで20分くらいで行けると思ったんですが、結局30分かかりました(疲労困憊)

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展望台

というわけで着きました、展望台。 
紅葉がすごいですが、さんざん見てきたので全然キレイに撮ろうという気持ちがない。

龍岡城展望台

展望台から撮った龍岡城です。
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夕暮れ時なのに夕日が上手に収まっているわけでもなく、紅葉とバッチリ撮れているわけでもない…。
こういうときにもっと写真練習しておけば良かったと後悔するのであった。

自分としては、「小学校の校舎がある龍岡城」を撮りたかったので目標達成です。
そりゃあ復元されるのが一番でしょうけど、城内が「学校」になって100年以上経っているのも歴史として認識しないといけないと思うわけです。
そして何より、堀に囲まれた小学校が単純にカッコイイじゃないですか。


あと、分かってはいたけど、ザ・★!って感じで撮るのは高さ的に無理ですね。
星力を感じたいときは大人しく航空写真見るかドローン飛ばすしかなさそう。


ほんとは展望台からさらに林道を登って行ける田口城跡も行ってみたかったけど、日も暮れてきたので撤収。
帰りは林道を下りて龍岡城駅まで向かいます。

龍岡城駅は1面1線の駅ですが、待合室はお城っぽくなってました。写真は撮り忘れた。


あとは林道の様子を何枚か撮ったので、それを上げて終わりにします。ありがとうございました。

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林道は舗装されてはいるが時々砂利敷になる。待避所も所々にあるがあんまり広くはなかった。

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情報量が多い

幸いにもクマさんには出会いませんでしたが、いても全然おかしくない雰囲気。

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山奥って謎の廃車あるよね。屋根が乗ってる豪華タイプ。
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林道の入口にはちゃんと看板があるので分かりやすい

終わり。

松代と小諸に行ってきた②

上田駅

1日目は長野駅前で一泊して、2日目は小諸城龍岡城に行ってきました。
が、上田駅で乗換時間があって暇だったので何枚か。

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軽井沢リゾート

長野駅から乗った軽井沢リゾートです。上田の次は中軽井沢なので上田で大人しく降りる。

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115系

軽井沢行を待っている間に適当に撮ったS15編成です。次の日に引退のニュースが上がったので、もっと真面目に撮れば良かったと思っています。

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上田駅引上線

上田駅の引上線。かつての上り6,7番線。大昔はこの引上線の外側に転車台もあったそうです。


小諸

小諸駅

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小諸駅

そしてうだうだしながらやってきた小諸駅

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小諸駅油庫

小諸駅の油庫です。イギリス積みな上に屋根下を張り出させるオシャレな造り。
蒸気機関車が走っていた時代の駅にしかない貴重な施設ですけど、よく考えたら千葉県に油庫って現存するのかな…。

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小諸駅でS15編成
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HIGH RAIL 1375。曲がってるじゃん

小諸城

そんなこんなで、小諸城を見学しに懐古園に行った訳だけど、紅葉が一番色づいているタイミングで、めちゃくちゃ人が多かった。
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図らずもめっちゃキレイに紅葉が撮れたので見てほしい。
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小諸城天守台から。

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本丸と馬場の間

小諸城田切地形と千曲川の崖を利用した「要害」ですが、意外と園内を回るのにはそこまで疲れない広さ。あと、たいていの城跡は柵とかで囲まれるけど、小諸城は石垣にフェンスとかないんで油断すると落ちます。個人的にはこの方が良いんですけど。

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大手門
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大手門

最後に、懐古園を出て、大手門。質実剛健ってかんじですな。
ちなみに小諸城松代城と同じく城の縄張範囲を鉄道が横切っています。


ラストは龍岡城だが長くなったので次回。

松代と小諸に行ってきた①

松代

長野県の松代と小諸、龍岡に行ってきました。
松代駅や松代城を見てきました。

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街の案内図

松代駅跡

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松代駅跡

長野電鉄屋代線の松代駅。廃止から約20年が経っていますが、まだ鉄道が通っていると感じられるこの佇まい。
めっちゃいい天気。ここまでは新幹線とバスで来ました。

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駅舎内
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駅舎説明
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ホーム

島式ホームは解体されて駐車場となっています。線路はもう無いけれどホームから降りると不思議な気分になる。

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信号梃

信号てこ。他の人の写真だと並べられているけど、こんな感じで積まれていた。

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屋代側

須坂側は自転車道にするための工事が始まっていた。

松代城

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松代城太鼓門

基本的に野面積みの石垣だけど、城内の所々に打込み接ぎらしさもある。両者の中間って感じ。あとめっちゃいい天気。

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海津城址之碑

信長の野望やっていると松代城よりも海津城との方がしっくりくる。

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戌亥隅櫓台から北不明門
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本丸から北不明門

肝心の戌亥隅櫓台の石垣は撮り忘れたよね。


松代駅は松代城の二の丸や埋められた外堀の位置に建てられており、鉄道が城の縄張りをぶった切った形となっています。
同じような例として岡山の福山駅や、(本丸ごと潰した)新潟の長岡駅がありますが、明治期に城跡を鉄道敷地に利用するのは、市街地に近い&一定の広さがある等といった要因があると思っています。

城郭サイドからすると完全復元の障害でしかないでしょうが、歴史地理的には数多ある城跡の利用方法の一つとして、とても面白いです。


松代象山地下壕

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地下壕の入口

戦時中に掘られた松代地下壕。
人が掘削しているため、天然洞窟よりも10倍歩きやすい。ヘルメットを付けて入るけど屈まないと入れない場所とかは無い。
奥まで行ったら折り返して入口まで戻ってくるスタイルのため、トイレとかは先に行っておこう。

ちなみに地下壕の中は淡々と説明文があるだけなので、詳しく歴史を知りたい人は地下壕入口の隣にある歴史館に行きましょう。


コウモリがいるって聞いていたけど、全然いなかったぞ…。

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地下壕内

豪内はほとんどの箇所が鉄骨で補強されている。

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削岩機ロッド

まず削岩機で岩盤にロッドを打ち込む。これは抜けなくて放置されたロッド。

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削岩機ロッド掘削跡

ロッドを抜いたら、穴にダイナマイトを入れて発破する。

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ロッコ枕木の跡

粉砕した岩石をトロッコに積んで搬出する。

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測点跡
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地下壕内の温度。13.5℃

(地下壕よりも朝の長野駅の方が寒かった)

川中島古戦場

最後に時間が少しあったので、川中島に行ってきた。

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川中島大合戦図
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武田信玄上杉謙信
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三太刀七太刀之跡
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執念の石

長野

一応、廃線メインでやってるブログなので、申し訳程度の廃線要素。

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善光寺白馬電鉄山王駅

善光寺白馬電鉄の山王駅跡です。石垣上に1面1線の駅が置かれていました。昔は橋脚もあり、築堤ももっと高かったそうですが、失われています。
石垣に「山王驛花園」という木札が掲げられていたようですが、自分が行ったときは無くなっていたのか蔦に覆われていたのか見つけられませんでした。

ちなみに築堤の道路挟んで反対側(南長野駅側)は普通に家となっていて廃線跡とは全然思えません。
自分は時間が無かったので行きませんでしたが、南長野駅から信濃善光寺駅までは市街地でなので廃線探訪しやすいと思います。


次回は小諸と龍岡。