1回⇒地図編 2回⇒空中写真編
3回⇒史料編 4回⇒デルタ線編
千葉陸軍兵器補給廠専用線について、以前に記事を公開してからさらに分かったことを紹介します。なお、千葉陸軍兵器補給廠は1945年に名称が変わります*1が、当記事では1944年に建設された当時の名称である千葉陸軍兵器補給廠(補給廠線)に統一します。
補給廠線が描かれた地図
下図は、国立公文書館の史料『公文雑纂・昭和十六年・第九十八巻・都市計画二十一』のうち「千葉都市計画北部土地区劃整理決定ノ件」に添付された地図です。
この史料、名前の通り千葉駅から北側の土地区画整理についてのものですが、ちょうど補給廠線が収まる範囲の地図を載せています。

地図は東側が上を向いています。右側に旧千葉駅があり、すぐ下に千葉機関区の扇形車庫が描かれています。弁天町の綿打池を左右に通る線路は鉄道連隊演習線で、下志津支線が分岐しています。
総武本線から分岐して「松波町」に分かれている線路が補給廠線です。この線路をよく見ると、総武本線とは完全にくっつかずに並行しながら旧千葉駅と扇形車庫の間にある軍用の「千葉駅(□)」で鉄道連隊演習線と接続しています。
この地図からも、補給廠線は旧千葉駅ではなく、軍用千葉駅を拠点にしていたことが分かります。
軍用千葉駅≒千葉駅構内軍用ホーム?
第3回記事では、補給廠線の起点である千葉駅を指す用語として「千葉駅構内軍用ホーム」、「千葉軍用停車場(軍用千葉駅)」が存在し、これは民間用の省線千葉駅(の構内)を指すのか、別の陸軍専用の千葉駅を指すのかということを取り上げました。

結論をいえば、千葉駅構内軍用ホームも千葉軍用停車場のどちらも陸軍専用の軍用千葉駅を指していると思われます。というのも、『鉄道ピクトリアル』2020年9月号(№977)に、昭和12年(1937年)と昭和36年(1961年)の旧千葉駅の配線図が掲載されており、それを見る限り、鉄道連隊演習線(材修場線)は千葉駅構内線と連絡線一本のみしか接続されていないからです。
そのまま配線図を転載するのは気が引けたので、配線略図エディタで両年の配線図を作成しました。詳しい配線図はネットで検索すれば新旧の千葉駅を掲載している方がいるので探してみてください。
千葉駅の配線略図
・千葉駅(昭和12年3月) | Railroad Wiring Diagram Editor
・千葉駅(昭和30年) | Railroad Wiring Diagram Editor
※昭和36年版は修正中につき昭和30年版を記載
どちらの配線図も補給廠線が接続していた戦中時代のものではありませんが、両配線図は旧千葉駅時代のものであり、当時の様子を知れる貴重な資料です。
戦前も戦後も、旧千葉駅は配線がほとんど変化していなかったことを踏まえると、戦中だけ軍専用の貨物ホームがあったとは考えにくいため、「千葉駅構内軍用ホーム」と「千葉軍用停車場」とはどちらも陸軍が使用していた軍用の千葉駅のことを指していると考えます。
文献に記載された補給廠線
補給廠線は地図や鉄道省文書といった史料にしか登場がなく、本当に実在したのか疑わしく感じる路線なのですが、実は『松波のあゆみ』(松波町史編集委員会、平成9年7月、ISBNの設定なし)という本に、「軍用物資輸送の軍軽便鉄道を敷設」という項があり、その文中(118ページ)に補給廠線について言及している一節があります。
戦時中、千葉駅軍用ホームより西へ総武鉄道に平行して、現松波一丁目を過ぎたあたりから右折し、京葉銀行㈱西千葉支店の西側脇より県営住宅に向かう。そして材料補給廠(現轟町経済高校)へと進み、それより犢橋から習志野原鉄道第二連隊へ。
文中、松波の京葉銀行西千葉支店は2020年にみどり台に移転しましたが、現在も西千葉出張所として残っています。また、轟町経済高校は千葉経済大学付属高校のことです。けっこう特徴的な半円カーブについて触れられていないのは悲しいですが、松波地区ではないため気にしないことにします。
上記の文から、今まで扱ってきた補給廠線は紙上の存在ではなく、地域に認識された鉄道だったといえるのではないでしょうか。
第6回に続く ⇒鉄道連隊演習線に繋がるアヤシイ路線の話⑥
*1:1923年、千葉陸軍兵器支廠→1939年、千葉陸軍兵器補給廠→1945年、東京陸軍兵器補給廠千葉分廠
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