新津田沼駅の話
今回は新京成電鉄「新津田沼駅」の前後区間がなぜ急カーブしているのか、という記事です。
新津田沼駅が現在の場所に至るまでの変遷を辿りながら、このブログお得意の航空写真を交えながら書いていきたいと思います。
「S字カーブ」は鉄道連隊由来?
新津田沼駅といえば、駅と一体化しているイトーヨーカドー津田沼店(2024年9月閉店予定)が真っ先に浮かびますが、鉄道趣味の世界では、京成津田沼駅との間にある「S字カーブ」が有名ですね。
最近ではテレビや鉄道系のネットニュースでこのS字カーブの事が取り上げられることも多いです。
地図で見てみると、前原~京成津田沼間はSと逆S字が合わさったカーブでできていることが分かります。まとめて「Ωカーブ」ということもあります。
カーブの中でも京成津田沼駅付近が一番きつく、曲線半径120mだそうです。
まずはじめに、新津田沼~京成津田沼間の急カーブについてですが、この無理矢理な線形が生まれた理由として、ネットニュース等では帝国陸軍の「鉄道連隊」の旧線跡を再利用してると書いてしまっていることがありますが、実際のところ、それは半分本当で半分間違いになります。
本当というのは、新京成線が総武線を跨ぐ跨線橋だけ鉄道連隊時代に架橋されたものなので、この跨線橋のみ鉄道連隊由来です。そして、間違いというのは、新津田沼~京成津田沼間のうち、跨線橋以外は戦後に新京成電鉄が新しく建設した区間になります。
つまり、純粋に鉄道連隊に由来するのは、跨線橋のみということです。
より具体的にいうと、このS字カーブは跨線橋と京成津田沼駅を線路でムリヤリ繋げるために誕生したわけですが、これだけだと新津田沼駅の位置が現在の場所にある理由になっていないので、新津田沼駅を取り巻く環境の変化を明治時代から順に紹介します。
明治時代
1910年(明治43年)頃の津田沼駅周辺です。右の地図は「迅速測図」といって1886年(明治19年)に帝国陸軍参謀本部陸地測量部が作成したものです。
津田沼駅の北側に鉄道連隊の「材料廠倉庫」、南側に「鐵道兵営」・「作業場」があります。南東側には総武本線(以下、緩急の区別をつける以外は総武本線とします)から分岐して千葉に至る「軍用鐵道線」が伸びています。
京成電鉄はまだ未開通でした。戦後にできた新京成電鉄も当然ありません。
この地図を見てわかることは、津田沼駅周辺はもともと畑しかなく、駅開業後も鉄道連隊の施設しかなかったということです。
「津田沼」という地名は「谷津」「久々田」「鷺沼」の各村から一文字ずつを取った合成地名で、由来になった3村は駅の南側にあります。3村のうち、当時一番人口が多かったのは久々田村だったそうですが、駅に繋がる道路は谷津村に繋がっています。
なぜこの場所に津田沼駅が開設されたのかについて、確かな情報はありません。
ですが、一説によると、陸軍の軍人が軍用鉄道線の先にある騎兵連隊営や習志野俘虜収容所へ通いやすくするために駅を設置したようで、初めから集落のためだった訳ではないようです。この説が正しいとすると、駅利用者の多そうな久々田村に駅が近くない理由も納得できます。
もちろん、津田沼駅周辺は河川によって土地の起伏が激しいので、そういった地理的条件も考慮する必要があると思いますが。
話が逸れました。つまり、津田沼駅周辺には人家が少なく、鉄道連隊の演習場を展開できる広大な土地が広がっていたということです。
ここから現在の新津田沼駅が開業するまであと60年ほど。
大正時代
1921年(大正10年)頃の津田沼駅周辺です。
京成電鉄が開業して、久々田村に現在の京成津田沼駅が開業しています。こうやって改めて古地図で確認すると、津田沼駅が何も無い中に開業したのに対して、京成津田沼駅は人口密集地に駅を開設したことが分かりますね。
津田沼駅に戻ると、津田沼駅北側(驛前)が発展しています。軍人を相手にした商店などで賑わっていたそうです。
鉄道連隊は1918年(大正7年)に2連隊制となり、津田沼は「鉄道第二連隊」となっています。
そして、この地図では総武本線を跨ぐ橋が架けられていることが確認できます。倉庫側から伸びた線路は跨線橋を通り、作業場の南側まで伸びています。京成津田沼駅には接続しておらず、京成線の手前で終了しています。
この線路が京成津田沼駅に接続していれば、名実ともにS字カーブは鉄道連隊由来といえたのですが、実際は新京成線開業時まで繋がることはありませんでした。
製作年・製作者不明の跨線橋は鉄道連隊演習線跡
跨線橋は鉄道連隊が「鐵道二倉庫」と「作業場」を結ぶために架橋したものです。1911年(明治44年)に軽便鉄道用(600mm軌間)の鉄橋が架けられましたが、標準軌(1435mm軌間)の機関車を通すために架け直されています。
跨線橋自体は、どこで製造されたのか不明、正確な架橋年月日が不明という正体不明な橋ですが、総武本線が電化(船橋~千葉間)されていない跨線橋下の演習線を写した写真が残されているため、電化完成の1934年(昭和9年)の前までには架橋されていたことが分かっています。つまり、架橋されてから90~100年が経つことになります。
一般的な橋梁の耐久年数を考慮すると、100年近い年月を経た橋に毎日電車が通っていることは奇跡のような気がしますが、これも新京成による日々の保守のおかげといえるでしょう。
跨線橋の”サイズ感”こそ鉄道連隊のおかげ?
この跨線橋は、鉄道連隊のものだった訳ですが、最終的に新京成に引き継がれることになります。その変遷は後述しますが、戦前に架けられた橋を現代でも使用することが出来るのには、ある2つの偶然が重なっていたことも大きな要因といえます。
①線路の幅が一致
上記で述べましたが、跨線橋はもともと軌間の狭い軽便鉄道用が架けられていましたが、標準軌(1,435mm)機関車を通すために架け替えたものでした。国内では必要のない標準軌でも、朝鮮半島や満洲等の大陸では標準軌が採用されていたので、帝国陸軍としては標準軌も扱えないといけなかったわけです。
新京成電鉄がこの跨線橋を使い始めるのは藤崎台駅から京成津田沼駅に接続する1953年(昭和28年)からですが、当時の新京成線は京成電鉄と同じ1,372mm(馬車軌)だったので、問題ありませんでした。
その後、新京成線は都営浅草線や京急線と直通運転を実施する京成電鉄に先駆けて、1959年(昭和34年)に1,435mmへ改軌を実施します。これも跨線橋が標準軌規格であったために可能だったといえます。
なぜ鉄道連隊は長い橋を架けたのか?
鉄道連隊が跨線橋を架橋した当時、総武本線は複線分しかありませんでした。つまり、2線分が通れる橋を架ければ良かったのに、なぜ5線も通せる橋を架けたのでしょうか?
先見の明ある鉄道連隊は架橋当時、将来の総武本線複々線化を予測していた……わけではなく、
跨線橋の下には総武本線に平行して鉄道連隊演習線も通っていたからですね。
上掲の古地図に描かれている通り、架橋当時は総武本線に平行して、山側に鉄道連隊演習線も敷設されており、標準軌と軽便軌が各1本(合計2本)敷かれていました。
また、総武本線と鉄道連隊演習線は勾配が少し異なっており、千葉方面の総武本線が下り勾配、大久保方面の演習線が上り勾配でした。そのため、両線の間にはちょっとした段差があるなど、跨線橋の下は4線+αの空間が広がっていました。
跨道橋の下を通っている線路の変遷を図にしたものです。1981年(昭和56年)の複々線化は鉄道連隊演習線跡を活用していることがわかると思います。
なお、跨線橋の橋台は、新津田沼駅側が当時のレンガ造りのままなのに対して、京成津田沼側の橋台は戦後の道路拡幅のために撤去され、現在はコンクリート橋台になっています。
戦後の道路拡張時に替えられた橋台は複線分の幅がありますが、橋桁は単線分となっています。今後、新津田沼~京成津田沼間が複線化されることになった際は、鉄道連隊に由来する跨線橋も架け替えられる事になるかもしれません。