norehero-19の日記

千葉県の鉄道などについて記します。

新津田沼駅の変遷を探る①~S字カーブと跨道橋~

新津田沼駅の話

今回は新京成電鉄の「新津田沼駅」のお話です。
新津田沼駅が現在の場所にある理由・その前後が急カーブとなっている理由を、このブログお得意の航空写真でたどってみたいと思います。

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新津田沼駅

「S字カーブ」は鉄道連隊由来?

新津田沼駅といえば、京成津田沼駅との間にある「S字カーブ」が有名ですね。
最近ではテレビや鉄道系のネットニュースで取り上げられることも多いです。

地図で見てみると、Sと逆S字が合わさったカーブだと分かります。まとめて「Ωカーブ」というときもあります。
津田沼京成津田沼間の曲線半径は一番キツイ京成津田沼駅付近で120mだそうです。

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新津田沼駅周辺(地理院地図を加工)

このS字カーブ、調べが甘い記事なんかだと新京成線の歴史に従って「鉄道連隊」の旧線跡を再利用してると書いてしまっていることがありますが、実際のところ、それは半分本当で半分間違いになります。

半分本当というのは、新京成線総武線を跨ぐ跨線橋だけ鉄道連隊時代に架橋されたものなので、この跨線橋のみ鉄道連隊由来です。
そして、新津田沼京成津田沼間のうち、跨線橋以外は戦後に新京成電鉄が新しく建設した線路になります。

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新京成が戦後に建設したのがピンク線。鉄道連隊由来の跨線橋は赤丸。雑なのは許せサスケ。

いわば、このS字カーブは跨線橋京成津田沼駅をムリヤリ繋げるために誕生したわけですが、これだけだと新津田沼駅の位置が現在の場所にある理由になっていないので、新津田沼駅を取り巻く環境の変化を明治時代から順に紹介します。


明治時代

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今昔マップを加工

1910年(明治43年)頃の津田沼駅周辺です。右の地図は「迅速測図」といって1886年明治19年)に明治政府が作成したものです。

津田沼駅の北側に鉄道連隊の「材料廠倉庫」、南側に「鐵道兵営」「作業場」があります。南東側には総武本線(以下、緩急の区別をつける以外は総武本線とします)から分岐して千葉に至る「軍用鐵道線」が伸びています。

京成電鉄はまだ未開通でした。戦後にできた新京成電鉄も当然ありません。


この地図を見てわかることは、津田沼駅周辺はもともと畑しかなく、駅開業後も鉄道連隊の施設しかなかったということです。

津田沼」という地名は「谷津」「久々田」「鷺沼」の各村から一文字ずつを取った合成地名で、由来になった3村は駅の南側にあります。3村のうち、当時一番人口が多かったのは久々田村だったそうですが、駅に繋がる道路はなぜか谷津村に繋がっています。

なぜこの場所に津田沼駅が開業されたのかについて、確かな情報はありません。
ですが、一説によると、陸軍の軍人が軍用鉄道線の先にある騎兵連隊営や習志野俘虜収容所へ通いやすくするために駅を設置したようで、初めから集落のためだった訳ではないようです。この説が正しいとすると、駅利用者の多そうな久々田村に駅が近くない理由も納得できます。
もちろん、津田沼駅周辺は河川によって土地の起伏が激しいので、そういった地理的条件も考慮する必要があると思いますが。


話が逸れました。つまり、津田沼駅周辺には人家が少なく、鉄道連隊の演習場を展開できる広大な土地が広がっていたということです。
ここから現在の新津田沼駅が開業するまであと60年ほど。


大正時代

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今昔マップを加工

1921年(大正10年)頃の津田沼駅周辺です。
京成電鉄が開業して、久々田に現在の京成津田沼駅が開業しています。こうやって改めて古地図で確認すると、津田沼駅が何も無い中に開業したのに対して、京成津田沼駅は人口密集地に駅を開設したことが分かりますね。

津田沼駅に戻ると、津田沼駅北側(驛前)が発展しています。軍人を相手にした商店などで賑わっていたそうです。
鉄道連隊は1918年(大正7年)に2連隊制となり、津田沼は「鉄道第二連隊」となっています。

そして、この地図では総武本線を跨ぐ鉄橋が架けられていることが確認できます。
新京成電鉄はまだ誕生していませんが、S字カーブのきっかけとなる京成津田沼駅と跨道橋は大正時代まで遡ることができるわけです。

製作年・製作者不明の跨線橋は鉄道連隊演習線跡

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跨線橋の周辺拡大

跨線橋は鉄道連隊が「鐵道二倉庫」と「作業場」を結ぶために架橋したものです。1911年(明治44年)に軽便鉄道用(600mm軌間)の鉄橋が架けられましたが、標準軌(1435mm軌間)の機関車を通すために1934年(昭和9年)頃に架け直しが行われました。

どこで製造されたのか不明正確な架橋年月日が不明という正体不明な橋ですが、総武本線が電化される前(1934年頃)というのは分かっているので、架橋されてから約90年が経とうとしています。

それでも電車が日夜通ることができるのは新京成による日々の保守のおかげですが、鉄道連隊⇒新京成へ引き継がれるにあたって、2つの偶然が重なっていたことも大きな要因といえます。

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総武線乗越橋梁」と跨道橋

左が総武本線を跨ぐ新京成線の「跨線橋」。昔は「新京成電車」と書かれていた。右の跨道橋は戦後のもの。

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道路側の橋台はコンクリート

戦後の道路拡張時に替えられた橋台は複線分の幅があるが、橋桁は単線分。

①線路の幅が一致

上記で述べましたが、跨線橋は鉄道連隊が標準軌(1435mm)機関車を通すために架け替えたものでした。新京成電鉄がこの跨線橋を使い始めるのは1953年(昭和28年)からで、藤崎台駅から京成津田沼駅に接続するときでしたが、当時の新京成線は1,372mm(馬車軌)だったので、問題ありませんでした。

新京成線京成電鉄に先駆けて1959年(昭和34年)に1435mmに改軌しますが、跨線橋が撤去されることなく改軌に対応できているのは標準軌規格だったからだといえます。

5線分の広大スパン

この跨線橋総武快速線総武緩行線幕張車両センターへの出入区線の計5本の線路を跨いでいます。戦前の総武本線は複線分しかなかったのにもかかわらず、架橋当時から長大スパンであったため、1981年(昭和56年)、津田沼~新検見川間の複々線化時も、撤去されずに済みました。

なぜ鉄道連隊は長い橋を架けたのか?

わざわざ疑問形にしましたが、古地図を見ればその謎もすぐに解けると思います。
跨線橋の下には総武本線に平行して鉄道連隊演習線も通っていたからですね。

架橋当時、総武本線に平行して、山側に鉄道連隊演習線の標準軌と軽便軌が各1本(合計2本)敷かれていました。
また、千葉方面へ向かう総武本線と、大久保方面へ向かう演習線は勾配が少し異なっており、両線の間にはちょっとした段差があるなど、跨線橋の下は4線+αの空間が広がっていました。

そのため、昭和初期に架けられた跨線橋を当時のまま現在も使用することが出来ています。
レンガ造りの橋台も当時のままですが、南側の橋台と跨道橋は戦後の道路拡幅のために撤去・交換されています。

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跨線橋の下を潜る線路の変遷(配線図エディタで作成)

跨道橋の下を通っている線路の変遷を図にしたものです。
戦後、鉄道連隊演習線跡を陸上自衛隊国鉄が使用しており、その時は狭軌線路1本が敷設されていましたが図では省略しています。

まとめ

津田沼京成津田沼間のS字カーブは鉄道連隊演習線跡をそのまま再利用したものではなく、跨線橋を通って京成津田沼駅を結んだために生まれたものでした。
このカーブが原因で、新津田沼駅は4回も開業と廃業を繰り返すことになります。

続く。