成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道② - norehero-19の日記
の続きです。
①では地図、②では航空写真を使って貨物軌道にアプローチしてきましたが、最後は文献編です。
「貨物軌道」の正体を求めて
「貨物軌道」がナニモノであるのか、まずは京成電鉄関係の書籍を調べてみました。
旧版地図に貨物軌道が描かれた1928年近くの出来事といえば、1926年(大正15年)に京成本線津田沼〜成田間延伸がありました。仮に工事用の仮設鉄道であれば京成関係の資料から情報が得られるのではないか?と思ったためですが、結果から言うと全く手掛かりは掴めませんでした。
京成本線の成田延伸について触れている書籍はいくつかありますが、大概は成田花咲町駅での仮開業の話題が中心であり、特に一番期待していた『京成電鉄五十五年史』でも延伸工事の詳細までは書かれていませんでした(実は書いてあったらゴメンナサイ)
ここまで情報が何も無いとすると、この「貨物軌道」は京成電鉄にとって禁忌であり、開けてはならないパンドラの箱ならぬ、パンドラの廃線…などと意味不明なことを考えて、この廃線の存在を忘れようとしていましたが、最後の最後に閃いてしまったのです。
地元の歴史は地元の人のみぞ知る、つまり、
酒々井には「町史」がある…!
この発想の転換?が功を奏し、遂に『酒々井町史』から「貨物軌道」の正体に迫ることができたのです。
町史の第四節第二章「鉄道」で京成電鉄の津田沼~成田間延伸時について述べている箇所を次節で紹介します。
「貨物軌道」は京成本線の…
津田沼・成田間は延長31.6キロメートル、工事は大正14年10月、六工区に分割、同時に工事着手した。佐倉・酒々井間は第五工区で水野組が請け負い、酒々井・成田間は第六工区で田島組が請け負った。両組とも事務所は卜ヶ崎に設けて着手した。工事に必要な機材は、国鉄酒々井駅より大鷲地区まで貨物引き込み線をつくり、貨車で運搬した。
引用元は『酒々井町史 通史編 下巻』(酒々井町史編さん委員会 編、1987年、155頁)
この一文から、京成本線成田延伸の工事は、成田線酒々井駅から「貨物引き込み線」を設置して施工したことが分かります。
欲を言えば引込線の軌間も分かれば面白かったですが、それを町史に求めるのは酷ですね。
「貨物引き込み線」について、この文章の続きにはルートについても詳細が書かれていますので、そのポイントを箇条書きにしてみます。
- 駅から酒々井字所城(中央台一丁目)の山を切り拓いた。
- 中川から卜ヶ崎付近を通った。
- 大鷲に至る約1キロメートル間を借地して造成した。
- 大鷲地区は機材集積の拠点となった。
実際の文章には町史だけあって、現代だと個人特定に繋がるような情報も載っていますので、その辺は省略しています。
まず、最初の地図を使って地名の場所を確認します。
まず、所城は酒々井の旧地名で、現在は括弧書きにもある通り、中央台一丁目となっています。上図でいうと、酒々井駅北側の郵便局周辺となります。
中川、卜ヶ崎(ぼっけざき)、大鷲は地図に丸囲みした場所です。
次に、前回の航空写真を使ってルートを再び確認してみます。
青線および青破線は「貨物軌道」、オレンジ文字は地名のおおよその位置です。緑文字はルート詳細にあった「山を切り拓いた」場所と、「機材集積の拠点」を示しています。
改めて航空写真を見ると、「白い土地」が所城の山を切り拓いて造成されていることが分かります。中川から卜ヶ崎を経由していることも文章の通りといえましょう。
しかし、大鷲地区周辺は「白い土地」もなく、「機材集積の拠点」となったであろう場所も特定できません。廃線跡も推測線です。
なぜ、中川を境に廃線跡が消えてしまうのか?
実は、この理由も町史には書かれていました。
最後に、工事終了後の貨物軌道についての一文を引用します。
中川地区の敷地は線路撤去後、そのまま返還をうけ、畑地としたのに対し、上岩橋地区は原形に戻して返還をうける契約となっていた。
引用元は『酒々井町史 通史編 下巻』(同上同頁)
この文中、上岩橋地区とは、卜ヶ崎・大鷲の大字です。つまり、この両地区の区間に限って、貨物軌道跡は工事前の状態に原状回復されたということです。
廃線跡を確認したのは1946年の航空写真であり、工事終了後すぐに戻されたのであれば20年後に残っていないのも納得できる話です。
逆に、畑地となった廃線跡は20年後も残っていたのだから、スゴイといえるのではないでしょうか。