成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道① - norehero-19の日記
の続きです。
謎の鉄道を分析する
現代では全く想像のつかない、酒々井駅と京成本線を繋ぐ謎の「貨物軌道」…。
旧版地図を見る限り、この鉄道は酒々井駅から分岐して北西方向に進み、京成酒々井駅の宗吾参道方で成田方面に向かって京成本線に合流しているのが分かります。
ここで気になるのは、成田線が鉄道、京成本線と「貨物軌道」が特種鉄道で描かれている点です。
成田線は、いわゆる”普通鉄道”を表す旗竿式鉄道であるのに対して、私鉄である京成本線が特種鉄道で表現されていることから、この旧版地図では「大正6年式地形図図式」のルールが適用されていると考えられます。
仮に6年式とすると、「貨物軌道」は上図から、一軌(単線)であったことが分かります。
また、6年式における特種鉄道の表す鉄道の範囲から、次のいずれかの性格を持っていたと推測できます。
- 普通鉄道(1,067mm)だが、動力が微少
- 普通鉄道ではない(1,067mm以下)
- 電気鉄道
「貨物軌道」の名前であるため、さすがに3は無いとして、どの軌間(1,067mmか1,372mmかそれ以外か)が採用されていたのか、気になるところです。
※そもそも、「貨物軌道」は酒々井駅にピッタリと接続していないようにも見えるが、縮尺の問題か?
航空写真に写っているか?
やはり気になるのは、航空写真に「貨物軌道」跡が写っているかどうかです。
ただ、1928年(昭和3年)前後が存在した期間だとすると中々難しい気がしますが、国土地理院の航空写真を使って探してみます。
2009年
今から14年前、2009年(平成21年)の航空写真です。建物の増減はあるものの、現在と大きくは変わっていません。
そして肝心の「貨物軌道」跡ですが、全く分かりません。
成田線側も京成本線側も分岐地点にそれらしい分岐跡もなく、推定されるルート上にも土地形状の変化は認められません。
特に酒々井駅周辺は昭和40年代から団地造成が行われており、駅の東側は「東酒々井」、西側は「中央台」として開発され、区画整理された街並みとなっています。
この航空写真だけで「両線の間に線路が繋がっていた」なんて言おうものなら、完全に架空鉄道の話になってしまうほど、痕跡も何も残っていません。
なお、成田線と京成本線を弧を描いて繋いでいるものが見えますが、これは水路であり、鉄道とは関係ありません。ただ、この水路の位置は結構大事です(!)。
1972年
1972年(昭和47年)です。現代から一気に飛ばしましたが、この時代でも廃線跡と分かる痕跡は見つけれらません。
酒々井駅を囲む土地が造成によって均されています。先ほどの水路より南側が開発範囲であることが分かりますね。
果たしてこの時代より以前に廃線跡は残っていたか?
1946年
戦後すぐの1946年(昭和21年)、米軍撮影の航空写真です。
ここまでもったいぶっておきながら今更ですが……
廃線跡、残っています!
「貨物軌道」跡は地図に描かれた1928年より約20年経った後でも残されていました。
分かりやすいように、「貨物軌道」跡を図示してみます。
酒々井駅・京成酒々井駅の間に、「白い土地(黄色矢印)」があります。駅周辺はほどんとが山林や田畑、家屋である中で、とても目立ちます。
「白い土地」は酒々井駅から北西に向けて分岐しているように見えること、鉄道と同じ程度の幅であることから、廃線跡と判断して問題ないのではないでしょうか。
また、現代にも残る水路と「白い土地」は別々に存在していることから、水路が廃線跡で無いことも分かります。
ただ、不思議なのは、酒々井駅側には廃線跡が確認できるのに、京成本線側には「白い土地」が全くありません。酒々井駅から京成本線に向かう「白い土地」は、道路を越えた先で少しだけ現れたまま、ぷっつりと消えてしまいます。
旧版地図では「貨物軌道」は確かに京成本線に接続していました。しかし、この航空写真を見た限りでは、途中で諦めてしまった未成線跡に見えます。
「貨物軌道」の正体は何者か?
疑問を少し残してしまいましたが、旧版地図に描かれた「貨物軌道」は、決して架空鉄道ではなく、現実にも存在していたことを明かせたと思います。
しかし、この「貨物軌道」なる謎の鉄道の正体は不明のままです。
もしも現代に残っていれば、某所の「蒲蒲線」ならぬ、酒酒線として空港連絡鉄道成り得た可能性もあるだけに、なぜ無くなってしまったのか、その理由を次回は探っていきます。
成田線と京成本線を繋ぐ、酒々井のナゾ鉄道③ - norehero-19の日記
に続く。