前回は『鉄道連隊附図』の作成年を考察しましたが、今回は千葉に焦点をあて、『材料廠一般図』の内容についてもう少し掘り下げてみます。
空中写真との比較
これは1946年の兵器補給支廠と鉄道第一連隊材料廠の空中写真です。戦後ですが、まだ陸軍施設の多くは終戦時のまま残されており、当時の建物や線路の様子が分かります。
なお、上部両端の写真が欠けたままなのは、写真が無いためです。
この空中写真に、『材料廠一般図』を重ねてみました。
「材料廠一般図」は背景となる紙の色を抜き、写真の向きと比率を一般図に合わせて調整しています。そのため、北側が右向き(西上)になっています。
こうしてみると、建物配置や線路の形状が図面と写真でほぼ一致することが分かります。「一般図」は、図面製作者がフリーハンドで適当に書いたものではなく、何らかの計測データを使用して正確に製作されたものだと考えられます。
また、明治時代の図面と戦後の写真を比べてみると、建物にほぼ増減がないことも分かります。これは陸軍が基本的には材料廠設置当初からの建物を使用し続けていたことを物語っています。
一部の建物は図面に対して有ったり無かったりがありますが、この施設変遷は戦中の写真や増改築に関する申請史料とを突き合わせることで判明していくものだと思います。
そもそも、鉄道第一連隊材料廠と兵器補給廠は、もとは鉄道材料廠として一つの施設でした。ですが、「一般図」ではのちに材料廠と兵器補給廠とに分かれるエリアが最初から敷地分割が分割されていたことが分かります。機関庫や倉庫もそれぞれの敷地内に設置されているので、何かしらの意図があって分けていることは明白です。つまり、鉄道材料廠は、分割してから施設が分けられたのではなく、初めから区別されていたものを組織として正確に独立された、と考えられます。
兵器補給廠の敷地拡大と専用線
図面左側の鉄道第一連隊材料廠は概ね図面通りといえますが、右側の兵器補給廠は、上(西)側にも敷地が拡大していることが分かります。建物は過去に建っていたと思われますが、写真では更地になっているように見えます。
鮮明に写っているのは「兵器補給廠専用線」で、拡大された補給廠の敷地を横断するように操車場が広がっています。兵器補給廠専用線については別記事でまとめています。
敷地の拡大は戦争が本格的になっていく1940年代のことですが、こうしてみることで広げられたエリアを知ることができます。
転車台?
さらに図面を見ていると、ある丸いものが2つ、目に入ります。
材料廠と兵器補給廠に「転車台」が2つもあったことが分かります。
この転車台、何も書かれていませんが、一般図をみると左側(材料廠)は赤い線、右側(補給廠)は青い線が接続しています。つまり、左側は狭軌用、右側は軽便軌用の転車台であったと思われます。
ただ、戦後の写真には転車台があったと推定される場所に転車台だと分かる影は映っていません。(左側は中心に丸い黒点が見えるが?)
次の空中写真は1947年です。1946年に比べて写真が鮮明で、施設の様子も分かり易いですが、鉄道材料廠内には既に住宅が建設されています。これは、千葉市の空襲による戦災復興計画の中で、空いていた軍用地を復興住宅の用地として使用したことによるものです。
また、兵器補給廠は国鉄の千葉材修場として引き継がれ運用されています。
この画像から転車台のあったと思わしき場所を切り抜いてみる。
軽便軌用転車台の場所には建物が建っていて、跡形もありません。軽便鉄道の車輌ならわざわざ回転させる必要も無さそうですし、おそらく早々に撤去されてしまったのでしょう。
対して、狭軌用の転車台があったであろう場所には、車輌が1輌(2輌にも見える?)止まっているのが分かります。
この写真から「実際に転車台が残っていて、まさに回転を実施するorした状況」と判断したくなりますが、転車台特有の円形もなく、ただ留置しているだけにも思えます。
同じ写真には千葉機関区も写っていますが、こちらは20mの転車台が明確に判別できることから、材料廠の転車台も撤去されて無くなっていると考えてよさそうです。
以上、今回はここまでです。次回は材料廠時代から現存する建物を紹介します。