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デルタ線と引込線群の正体
以前の記事で、千葉陸軍兵器補給廠専用線から伸びているデルタ線と引込線群について、東武野田線大和田駅の引込線から推測して、機関車の防空壕ではないかと予想しましたが、答え合わせとなる資料がありましたので紹介します。
デルタ線と引込線群の写る空中写真。線形の書き込み写真は記事の下の方に掲載。

デルタ線と引込線群について、国鉄の『日本国有鉄道百年史』に詳細な内容が記述されていました。1944年の出来事について記述された早速一節です。早速ですが、その一部を引用します。(第11巻、日本国有鉄道、1973年、335ページ)
内地鉄道司令部員(教導鉄道団派遣将校)と東京鉄道局職員により新鶴見・大宮・小山の機関区分散疎開工事計画が立案され、その他の機関区とともに分散地の選定、機関車掩体の構造設計が行われた。
機関車掩体(木造土留壁)は関係機関区収容両数の3分の1程度格納を目標に、庫内・庫配線内に分散構築するものであり、また疎開は機関区自体を分割疎開するものであったが、トンネル内に設計されたものは新鶴見のみで、その他は森林内に計画された。しかし、終戦までに使用可能なまでに完成したのは大宮と宇都宮だけであった。
引用文より、戦争中に機関区の疎開が実施されたこと、それは森林内に計画され、終戦時には未完成であったことが分かります。
1944年当時、空襲の激化に伴って、首都圏の鉄道施設防衛が喫緊の課題となっていました。引用文中の「教導鉄道団」は、内地に残されていた鉄道連隊の練習部が改編されて誕生した組織です。
機関区の分散疎開工事は、新鶴見・大宮・小山のほか、13機関区(計16機関区*1)で計画され、その中には千葉機関区も含まれていました。
千葉機関区は、疎開地として西千葉駅が選ばれ、工事は教導鉄道団と同時期に改編された東部第86部隊(旧・鉄道第一連隊)*2が担当でした。
千葉機関区について、空中写真から読み取れる範囲で検討すると、まず、森林内に計画されたという点はその通りで、実際に引込線は森林内に伸びていました。掩体の木造土留壁は空中写真からは確認できないことから、建設されていなかったか、完成していても終戦に伴い撤去されてしまったのだと思われます。
どちらにしても、終戦時に使用可能だったのは大宮と宇都宮のみだったことから、施設全体ベースでは未完成であったことは間違いありません。
構築する機関車掩体は「関係機関区収容両数の3分の1程度格納」と記述されていますが、写真から確認できる引込線群は6本あります。千葉機関区は扇形庫に18輌を収容可能でしたので、3分の1はちょうど6輌分となり、計画通り建設されていたことが分かります。
上掲の写真に各線名と「デルタ線」、防空壕線としていた引込線群は「掩体線」として記載。

百年史にはデルタ線について記述されていませんが、転車台の設置でないことは、疎開という緊急的な措置であることや、疎開地が森林地帯であったことから、コストパフォーマンスを優先させたであろうと想像できます。
また、引込線の建設時期としては、1944年に計画されていたことから、第4回記事での予想通り、1944~1945年にかけて実施されたと思われます。
以上のことからも、デルタ線と引込線群は機関区疎開のために建設された設備であったといって問題ないと思われます。デルタ線は写真に写るインパクトが強いので、もっと知名度があってもよさそうと思いますが、戦時中の出来事で資料が無いことや、未完成であったが故に遺構が残っていないことが認知度の低い理由だと思っています。
補給廠線は何キロあったか
第3回では鉄道省文書を紹介しましたが、補給廠線の延長が何キロあったかは記載されておらず、実際の長さは不明なままでした。
距離についても調べていたところ、『新日本鉄道史(下)』の「第Ⅶ編・総武 第4章 昭和15~24年の総武線」に興味深い記述がありましたので、これについても引用します。(川上義幸、鉄道図書刊行会、1968年、222ページ)
当時、特種専用側線として、千葉駅から8.0km、17.0km、4.7kmの3本建設した記録があるが、臼井茂信によれば、前2者は鉄道連隊が演習用として建設した。千葉~四ツ街道間、千葉~津田沼間の600m軌間のものであり、両線は千葉駅の北2.0kmの千葉兵器支廠(現在の国鉄千葉材修場)附近で分岐していた。
戦時中、別に千葉駅から両国方へ1.5km総武線に並行し、西千葉駅の手前0.4kmで分岐して兵器支廠に至る1,067km軌間の線路を建設した。延長4.7kmは兵器支廠東部~千葉駅~兵器支廠西部間を指すものという。千葉駅~兵器支廠西部間は戦後撤去され、現存するのは兵器支廠東部(現在は千葉材修場)~千葉駅だけであるが、支廠の構内では何故か両線は連絡していなかった。
引用文中、補給廠線は4.7km(兵器支廠東部~千葉駅~兵器支廠西部間)であったと述べられています。
この4.7㎞の正確さについて検討してみると、まず、「前2者」として鉄道連隊演習線(8.0km、17.0km)を挙げていますが、これは下志津線と習志野線についてであると分かります。
下志津線8.0㎞は、軍用千葉駅~軍用四街道駅間(現在の愛国学園南側)がちょうど8.0㎞になり、なぜ路線変更前(下志津飛行学校によるルート変更)の距離なのかは疑問ですが、問題ないといえます。
習志野線17.0kmは、軍用千葉駅~軍用津田沼駅間を指しますが、実際距離は約16.5kmであり、少し盛られていますが、正確であるといえます。
2路線を踏まえ、補給廠線を指す「兵器支廠東部~千葉駅~兵器支廠西部」を空中写真上で計測すると下図のようになりました。東端は「千葉材修場」*3、西端は補給廠内のヤード線があった場所としています。

地理院地図の計測機能を利用して測ってみたところ、数十mの誤差はあるものの、概ね4.7kmで一致しましたので、これも正確であるといえます。
また、補給廠線が、鉄道省文書にて計画されていた標準軌は、補給廠西部区間には敷設されていなかったことや、戦後は撤去されてしまったことも判明しました。ただ、この引用文から下記の疑問点が浮かびます。
1についていえば、穴川急カーブ区間は、鉄道連隊のみが使用していたのか。または材料廠構内扱いだったのか。または、建設時期が異なり、距離数にカウントされなかったのか…。様々疑問が浮かびますが、これは実際の運用も含めて調査しないと分からないかもしれません。
『専用線一覧表』の兵器補給廠線
2・3の疑問点についても答え合わせできるものはありませんが、距離数と名称が記載されたもう一つの資料として、1951年の『専用線一覧表』があります。この一覧表の千葉駅所管の契約に、旧陸軍が関係するものがありました。

契約相手方が「大蔵省」となっているのは、戦後の旧軍施設が大蔵省管理となっていたからです。また、1951年は終戦から6年が経過していますが、まだ「無契約」としながらも記載されている不思議な状態です。財産所有者などの問題なのでしょうか。
千葉に限らず、専用線一覧表は戦後の旧軍関係専用線を「無契約」と表記しているものが多いですが、無契約とは、具体的にどういった状態なのでしょうか。専用線にはあまり詳しくないため分かりませんが、純粋に不思議な表記に感じます。
1番目の契約者である「旧東部第86部隊」は前述の通り、鉄道第一連隊のことです。ほかは作業キロの「1.8km」しか情報がありませんが、おそらく軍用千葉駅から鉄道連隊の材料廠間が該当すると思われます*4。
(千葉駅構内との連絡線をカウントしていなかったり、材料廠内が中途半端だったりと、不確かな点は多いですが、参考程度に見てください)

問題は2番目の補給廠線です。陸軍兵器補給廠が旧契約者となっていますが、気になるのは作業キロで、「第1積卸線2.8km、第2積卸線4.7km、第3積卸線5.3km」となっています。
新日本鉄道史のいう東部や西部という表記がないので確定はできませんが、第2積卸線を4.7kmの距離が一致する「補給廠西部~千葉~補給廠東部」と仮定することはできます。
しかし、そうすると第1積卸線と第3積卸線は何なのでしょうか。どちらも作業キロとなるので重複区間があるかもしれませんがよく分かりません。穴川急カーブがどこかに含まれるのかもしれませんが、急カーブ自体は約0.8kmのため他の線に足したり引いたりしても一致しません。
軍用千葉駅~材料廠間は補給廠線と重複している可能性があるため、第1~第3についても重複区間がありそうです。これについては、別の資料にあたる必要があると感じています。
ちなみに、1946年発足の千葉材修場は1951年であれば当然存在しており、運転上は千葉駅の構外側線の扱いだったようですから、無契約ながらも書類上は専用線として記載された補給廠線跡を実際は材修場引込線として運用していたという、同一路線に対する実態との乖離が面白いです。
最後に補足すると、専用線一覧表では次の1953年版に千葉駅自体が記載されていません。「無契約」が終了したといえます。ただ、鉄道広報には1947年版も掲載されたらしく、これなら戦後すぐの専用線がより詳しく記載されている可能性があるのですが、現在まで未発見のためこれ以上の専用線一覧表からのアプローチは難しそうです。
といったところで、千葉陸軍兵器補給廠線の文献調査結果でしたが、詳らかな点ではまだまだ不完全燃焼といったところです。補給廠の構内図や運用の実態が分かれば一番良いですが、ほかにも補給廠線や鉄道連隊演習線について面白い資料があれば随時紹介していきたいと思います。
終わり。