上田駅
1日目は長野駅前で一泊して、2日目は小諸城と龍岡城に行ってきました。
が、上田駅で乗換時間があって暇だったので何枚か。
長野駅から乗った軽井沢リゾートです。上田の次は中軽井沢なので上田で大人しく降りる。
軽井沢行を待っている間に適当に撮ったS15編成です。次の日に引退のニュースが上がったので、もっと真面目に撮れば良かったと思っています。
上田駅の引上線。かつての上り6,7番線。大昔はこの引上線の外側に転車台もあったそうです。
1日目は長野駅前で一泊して、2日目は小諸城と龍岡城に行ってきました。
が、上田駅で乗換時間があって暇だったので何枚か。
長野駅から乗った軽井沢リゾートです。上田の次は中軽井沢なので上田で大人しく降りる。
軽井沢行を待っている間に適当に撮ったS15編成です。次の日に引退のニュースが上がったので、もっと真面目に撮れば良かったと思っています。
上田駅の引上線。かつての上り6,7番線。大昔はこの引上線の外側に転車台もあったそうです。
長野県の松代と小諸、龍岡に行ってきました。
松代駅や松代城を見てきました。
長野電鉄屋代線の松代駅。廃止から約20年が経っていますが、まだ鉄道が通っていると感じられるこの佇まい。
めっちゃいい天気。ちなみに、ここまでは新幹線とバスで来ました。
島式ホームは解体されて駐車場になっています。線路はもう無いけれどホームから降りると不思議な気分になる。
信号てこ。他の方の写真だと並べられているけど、こんな感じで積まれていた。
須坂側は自転車道にするための工事が始まっていた。
基本的に野面積みの石垣だけど、城内の所々に打込み接ぎらしさもある。両者の中間って感じ。あとめっちゃいい天気。
信長の野望やっていると松代城よりも海津城の方がしっくりくる。
肝心の戌亥隅櫓台の石垣は撮り忘れたよね。
松代駅は松代城の二の丸や埋められた外堀の位置に建てられており、鉄道が城の縄張りをぶった切った形となっています。
同じような例として岡山の福山駅や、(本丸ごと潰した)新潟の長岡駅がありますが、明治期に城跡を鉄道敷地に利用するのは、市街地に近い&一定の広さがある等といった要因があると思っています。
城郭サイドからすると完全復元の障害でしかないでしょうが、歴史地理的には城跡の利用方法の一つとして、とても面白いです。
戦時中に掘られた松代地下壕。
人が掘削しているため、天然洞窟よりも10倍歩きやすい。ヘルメットを付けて入るけど屈まないと入れない場所とかは無い。
奥まで行ったら折り返して入口まで戻ってくるスタイルのため、トイレとかは先に済ませておこう。
ちなみに地下壕の中は淡々と説明文があるだけなので、詳しく歴史を知りたい人は地下壕入口の隣にある歴史館に行きましょう。
コウモリがいるって聞いていたけど、全然いなかったぞ…。
豪内はほとんどの箇所が鉄骨で補強されている。
まず削岩機で岩盤にロッドを打ち込む。これは抜けなくて放置されたロッド。
ロッドを抜いたら、穴にダイナマイトを入れて発破する。
粉砕した岩石をトロッコに積んで搬出する。
(地下壕よりも朝の長野駅の方が寒かった)
4回目は補給廠線の専用線以外の用途について考えます。
この専用線、戦後の航空写真をよく見てみると不思議な引込線が何本も写っているのです。
第1回に掲載した航空写真に写っていますが、改めて下記に、引込線部分をピックアップして載せます。
写真は松波地区です。
東西を横切るのは総武本線で、扇状の住宅地は松波3丁目です。
赤い線が今回の主役である補給廠線です。
元写真などを拡大してみるとよく分かるのですが、補給廠線から6本の短い引込線(オレンジ矢印)、デルタ線となっている長い引込線(オレンジ線)が別れています。引込線は他にもあるかもしれません。
そもそもこれらが鉄道に関係するのか怪しいですが、区画された道路に寸断されている点や補給廠線から緩やかに分離している点から鉄道関係施設と判断します。
では、この引込線は何なんだとなるわけですが、まず補給廠線の情報が皆無な時点で正体が分かる術がありません。
ですので結論からいうと正体不明です。
ただ、推測ですが、これら引込線は機関車の防空壕であったと考えます。
突然ですが、この写真は埼玉県にある東武野田線大和田駅の1946年のものです。
大和田駅の春日部側から北上する線(矢印)がありますが、この引込線も機関車の防空壕線であると言われています。
実は千葉の補給廠線から伸びる引込線と、この大和田防空壕線(仮称)にはいくつかの共通点があります。
大和田に比べると千葉のは規模が小さく感じますが、これら共通するポイントから、千葉の引込線も防空壕であった可能性が高いと考えました。
最後に2019年の航空写真です。
鉄道連隊の習志野線と千葉材修場線は敢えて分けています。また、作業場線はだいたいこの辺りって所に線を引いています。防空壕線は一応、引込線群としました。
千葉駅の移転関係は省略。
補給廠線はそのキレイな線形が最大の遺構ですが、物理的な遺構は穴川の急カーブに陸軍の境界標石が残っているようです。松波側にも探せば残っているかもしれません。
また、松波さくら通りは千葉商業高校辺りで車道と小道が別れています。これは車道部が鉄道の築堤として建設された名残でしょう。
気が向いたら現地調査するかもしれませんが、ぜひ得意な人はよろしくお願いします。
3回目はこの路線の正体について求めていきたいと思います。
ただ、鉄道連隊に関しては史料などの情報があるのに対して、
この路線に関する情報は地図程度しかない…。
というより、そもそも存在自体が認知されていないわけで。
いろいろ調べていて、困っていたのですが、
一つだけ、この松波環状線の正体を明かせる史料を見つけることが出来ました。
『千葉駅構内軍用ホーム、千葉陸軍兵器支廠間陸軍専用鉄道敷設ノ件』
https://www.digital.archives.go.jp/item/1939626
これは国立公文書館デジタルアーカイブに登録されている鉄道省文書です。
残念ながら画像閲覧はできなかったので、史料を取り寄せました。
具体的な内容は次項にて記しますが、この史料が存在すること、他に類似する路線も無いことから、千葉駅と兵器補給廠を結んでいた鉄道は補給廠の専用線だったということで間違いないでしょう。
鉄道連隊の演習線ではなかった。半分分かってやっているのでわざとではある
どうでもいいことですが、画像の「近衛師団経理部長 鉄道」と書かれた項目は、通常なら鉄道会社名+鉄道or軌道となる場所ですが、今回は陸軍相手の書類のため、ちょっと面白い表記になってしまっています。
まず、この史料は昭和14年9月16日付にて陸軍から鉄道省に向けて宛てられています。
鉄道敷設の理由は「軍事上ノ必要ニ依リ」…
なんの根拠もなく推測しますが、おそらくは戦争により兵器輸送の需要が高まったこと、習志野線があくまでも演習線であり常設線ではなかったこと、などが専用線を新たに建設する理由になるのではないかと思います。
また、当史料は最終的に昭和15年11月5日付の日付で回されていることから、少なくとも専用線は1940年末以降に建設されたことになります。
1940年代であれば、当記事の①に記載した地図に当路線が描かれていても問題ありません。
なお、この史料で一番期待していた図面は、残念ながら添付されていませんでした。
どうやら「一般図」1枚、「平面図」3枚、「縦断面図」4枚が添付資料として存在していたようです。
次に専用線の「工事方法書」を転載します。
全体的には狭軌の標準的な規格と思えますが、この中で目を惹くのは、「2.軌間」の項に狭軌と標準軌が記載されていることです。
項3で単線としているため、専用線は3線or4線軌条で敷設されていた可能性があるわけです。ただ、戦中で果たして100%そうであったかは微妙なところですが。
「8.土工定規」が鉄道省ではなく満鉄の規定に依っているのも標準軌が原因かもしれません。
もしかしたら千葉駅に標準軌の列車が乗り入れていたかもしれないですね。
また、当史料には専用線の延長についての記載や図面がないため、”どこからどこまで”が専用線であるのか判断できません。
まず、「千葉駅構内軍用ホーム」とありますが、これは鉄道連隊の軍用千葉駅を指すのか、省線千葉駅に軍用の専用ホームが存在したのか。
自分としては、”千葉駅構内”という表記から後者だと思いますが、戦前の千葉駅配線図を見たことがないため、断言できません…。
ちなみに下図の通り、2か所は離れているため、どっちでもいいといえばいいのですが、気になる所です。
⇒「千葉駅構内」という表現から、省線千葉駅のことかと思っていましたが、どうやら軍用千葉駅のことを指している気がしてきました。千葉駅の配線については⑤で説明します。
「軍用千葉駅」は分かりやすく呼称しているだけで正式名称ではありません。史料では”千葉軍用停車場”と記載されているものがあります。「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01006610900、千葉軍用停車場敷地の一部管理換の件(防衛省防衛研究所)」
また、史料タイトルだけでは専用線に兵器支廠から鉄道連隊習志野線までの区間(穴川の急カーブ)が含まれるのか不明です。
ですが、項6にて最小曲線半径は「160m」とされています。この長さは当記事②にて測った穴川の急カーブと一致しているため、少なくとも習志野線との分岐部までは専用線の規格で建設されているといえます。
というわけで、省線千葉駅から習志野線分岐部までを専用線として、1955年の航空写真に載せたものが下図です。
専用線の名称がずっと安定しないですが、一応「千葉陸軍兵器補給廠専用線」ということにします。また、千葉駅の辺りは適当です。
今回は史料をもとに「松波環状線」が千葉兵器補給廠専用線であったと定めた訳ですが、
正直、図面が無いなど、若干の不完全燃焼感は否めないです。
ですが、戦中に建設された当専用線に対する知名度が少しでも上がれば、
いつか当時の写真や図面などの史料を見つけることができるのではないかと期待しています。
次回は、この専用線が兵器輸送以外に使用された可能性について考えてみます。
鉄道連隊演習線に繋がるアヤシイ路線の話④ - norehero-19の日記
鉄道連隊の習志野線から分岐する謎の路線、続き。
※千葉陸軍兵器支廠は補給廠⇒千葉分廠となりますが、補給廠に統一します。
次は戦後の航空写真を見てみる。
米軍撮影の1946年の航空写真です。環状線部分を切り取っています。
赤矢印が廃線跡です。戦後写真のため、撮影時に線路が残っていたのかは不明ですが、松波地区は宅地開発や新設道路のために剝がされていそうです。
ですが、補給廠内は放置されていたかもしれません。
どちらにせよ、地図に描かれていた路線は実際に存在したといっても大丈夫でしょう。
補給廠の”駅”と思われる場所(上から2番目の矢印)は、見た限り5,6本の線路が敷かれていたのではないかと思うくらい広いです。
よく見ると地図に描かれた引上線も確認できます。
総武本線との合流部は、現在の松波陸橋となっている踏切に軌道内舗装板が3つあるように見えるなど、省線と軍用鉄道は分かれていたことが分かります。
次は1955年の航空写真。
この時点でかなり宅地開発が進んでおり、現在に近い区画になっています。千葉公園内も綿打池や球場が完成しています。
廃線跡は半円部が残っていますが、補給廠内は北側に痕跡が残っている程度であとは宅地や道路となっています。
地図や航空写真でキレイに残っているのでわざわざやることではないですが、念のため確認しておきます。
補給廠北側の半円部、鉄道にしてはちょっとカーブがきつすぎる気がしたので測ってみました。
この画像ははんけい(地図を使って半径を調べるサイト)を使って作成しました。指定した半径の距離を入力すると、その円が地図上に載せられるサイトです。
こうしてみると、穴川の半円は、曲線半径160mぴったりで造られていたことが分かります。
R160といえば、東急東横線の地上線時代に代官山~渋谷間にあった並木橋附近が同じ曲線半径ですから、急カーブといえども鉄道由来であるといっても問題ないでしょう。
次回はこの路線の正体について探っていきます。
鉄道連隊演習線に繋がるアヤシイ路線の話③ - norehero-19の日記
突然ですが、この地図は千葉駅の北側、千葉経済大学の周辺です。
左が地理院地図、右がオープンストリートマップです。
もう先走って地図に書き加えてしまいましたが、
轟町と松波の所にアヤシイ道路があります。
①轟町は四角い区画から生える謎の半円道路、②は総武線からゆるりと分岐する道路です。
この2か所が線路の跡なのではないか?ということです。もう答えなんじゃないか。
というわけで、今回はこのアヤシイ道路の正体について考察していきたいと思います。
ご存じの方は、この辺りがかつて鉄道第一連隊の拠点であり、演習線が敷かれていたと察していただいていると思います。
そもそも鉄道連隊とは何ぞや?という方は
イカロス出版の『実録鉄道連隊』が体系的にまとまっていると思いますのでおすすめです。
鉄道連隊の演習線といえば、習志野線とその支線である花島迂回線、下志津線があり、
また、大部分が新京成線となった松戸線があります。
臨時の四街道~八街~三里塚間演習線も県営鉄道となった部分はそれなりに知られていると思います。
実は、上掲『実録鉄道連隊』の路線図に今回取り上げる線が描かれていますが、文中での言及はありません。
他にも鉄道連隊関連の書籍はありますが、この路線について解説しているものはなかったと思います。
とにかく、文字では伝わらないので、例のごとく地図を使っていきます。
画像は今昔マップ・1930年部修の千葉駅北部と現代の比較図です。
鉄道第一連隊が置かれていたのは椿森の「鐡道一」となっている所です。ここは津田沼の千葉工業大学に残る門柱のような遺構はなく、石碑があるのみです。
そして、地図中央にあるのが「千葉兵器支廠」と鉄道第一連隊の倉庫です。
国鉄の千葉レールセンターを経て、現在は千葉経済大学となっています。大学構内に材料廠煉瓦建築が残っています。
最終的には歩兵学校や気球隊、戦車学校もあった訳ですから、「轟町」という地名がつくわけです。
「軍用鉄道」と書かれているのは下志津線の線路です。
習志野線は旧千葉駅の西側から北上し、兵器支廠や下志津線が分岐、園生方面に抜けていっています。よくみると第一連隊内にも分岐線があります。
現在の線路跡はモノレールが上空を通っています。
それで、問題の謎路線ですが、この地図には描かれていません。
演習のための一時的な線路か、はたまた嘘なのかと思っていたこともありましたが、次の地図を見てみてください。
この地図は5万分の1ですが、上図と同一の場所を抜粋したもので、1944年に部分修正された地図です。スタンフォード大学のサイトから閲覧できます。
https://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=733446cc5a314ddf85c59ecc10321b41
あえて何も図示しませんでしたが、千葉駅~西千葉駅間から北西方向に分岐する謎の線路が描かれています。
線路は東大と兵器支廠の間を抜けて、戦車学校の南側で大きくカーブ、そのまま習志野線と合流しています。
この路線を、松波地区を通って習志野線と環状になっていることから、この記事だけの呼称として「松波環状線」とします。
上図2つから、1930年から1944年の間に敷設された鉄道といえそうですが、この地図だけでは一時的に敷設された臨時演習線と思えなくもない。
この2つの地図は、米軍陸軍地図局が作成した戦後の地図を抜粋したものです。縮尺が異なるため分かれています。テキサス大学のサイトから閲覧できます。
https://maps.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/
地図局の1枚目地図をみると「松波環状線」は千葉兵器支廠の敷地内に数本の線があり、”駅”があったと思われます。
”駅”の北には引上線のようなものもあります。
2枚目地図では総武本線と合流していますが、おそらく総武本線(複線)と軍用線(単線)は並走していた(3線)と思われます。
また、これらの地図に描かれているということは、「松波環状線」が八街演習線のような敷設後に撤去された演習線ではなく、戦中から終戦にかけて敷設されていた(であろう)常設線であったということです。
最終回は柏駅の周辺とちょっとした文献資料のまとめです。
第1回は⇒幻の船橋鉄道を探る①~高根町 - 千葉好き地図鉄の雑記録
1949年の柏駅南東側。柏駅と船橋鉄道を無理矢理収めるためにかなり広域な写真となっていますが、これほどまでに船橋鉄道は柏駅に近づいていなかったのです。
柏駅からは常磐線と東武野田線、そして総武鉄道が柏駅東口側にあった時代の旧線が伸びています。もしも船橋鉄道が開業していれば、これが船橋鉄道だったわけです。
柏駅から築堤までの距離は船橋と同じく約3kmほどで、豊四季村も他地域と同様に土地交渉が難航したようです。万が一工事されていても、写真に写る日立製作所の敷地となり破壊されている気がします…。
免許出願時、柏駅は千葉県営野田線と直接連絡するために、現在の東武野田線と同じく常磐線を乗り越える設計だったようですが、後に乗り越えを断念して柏駅東側に駅を設置する計画に変更しています。結局のところ、東武野田線の柏駅スイッチバック化は1930年に実現することになります。
ここまで未成線跡を探してきましたが、実際にどの程度工事されたのかは明らかになっていません。
ただ、工事の実態を探るものとして、1918年に免許が失効した際の理由書に以下の一文があります。
用地は全部の七分通り起工承諾書を徴したるのみにして代金の支払を為したるものは僅かに五反歩に過ぎず、土工は高尾万次郎の請負にて延長五哩、見積り代金二万三千円位の工事を為したるに、之に対し会社は全く支払を為さず為に本年二月頃より全然工事を中止せり
この理由書を読む限りでは、土地は全体の70%に対して起工承諾書をもらっており、そのうちの8マイル(約8km)分を高尾氏が請負って工事したということです。
全く支払いをせずに工事を行ったせいで、免許失効後に損害賠償の請求訴訟を起こされています。
単純計算ですが、船橋鉄道の延長23kmのうち、16km(70%)は土地を確保、8km(35%)は工事したということになります。
実は、今回空中写真で判断した未成線跡の長さを測ると、全て合わせて約9kmになります。
未成線と関係ないものを取り上げたり、取り逃していたりするでしょうし、高尾氏の請負以外が工事をしている箇所もあるでしょうから絶対とは言い切れませんが、船橋鉄道の遺構は今回紹介した区間がほぼ全てではないでしょうか。