千葉好き地図鉄の雑記録

千葉県の鉄道などについて記します。

幻の船橋鉄道を探る⑥~船橋駅と柏駅

1.船橋駅柏駅

最終回は船橋鉄道が結ぼうとした船橋駅柏駅の周辺と
ちょっとした文献資料のまとめです。
第1回は⇒幻の船橋鉄道を探る①~高根町 - norehero-19の日記

船橋駅
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1958年(KT582YZ-A25A-8029)加工

船橋駅の北東側です。総武本線が下に走っています。海老川の拡幅が始まっています。

1958年の時点でも船橋鉄道の遺構(赤矢印)が残っています。
船橋駅から築堤まで約3kmほどありますが、土地交渉が上手くいかなかったようです。
田んぼの中に未成線跡といえるものは何も無さそうです。

ちなみに、総武本線から分かれて北側の工場に向かう線は鴨川ニッケル工業の専用線です。
ひょんなことからこの専用線を延伸して船橋鉄道を開業させる未来がありえたかもしれない。

柏駅
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1949年(USA-R534-No2-123)加工

1949年の柏駅南西側。
柏駅からは常磐線野田線、そして総武鉄道柏駅東口側にあった時代の旧線が伸びています。
もしも船橋鉄道が開業していれば、これが船橋鉄道だったわけです。

柏駅から築堤まで船橋と同じく約3kmほどで、豊四季村も同様に土地交渉は難航したようです。
万が一工事されていても、写真に写る日立製作所の敷地となり破壊されている気がします。


右下にみえる小さな築堤が船橋鉄道の無念さを表しているように感じます…


柏駅は免許申請時、千葉県営野田線と直接接続するために現在の東武野田線と同じく常磐線を乗り越える設計だったようですが、
後に乗り越えを断念して柏駅東側に駅を設置する計画に変更しています。
柏駅の乗り越えはのちに船橋~柏間を開通させた北総鉄道もできなかった事から当時は(金銭・技術的に)難しいものだったのでしょうか。

2.どこまで工事したのか

ここまで未成線跡を探してきましたが、実際にどの程度工事したのかは分かりません。
ただ、1918年に免許が失効した際の理由書に以下の一文があります。

用地は全部の七分通り起工承諾書を徴したるのみにして代金の支払を為したるものは僅かに五反歩に過ぎず、土工は高尾万次郎の請負にて延長五哩、見積り代金二万三千円位の工事を為したるに、之に対し会社は全く支払を為さず為に本年二月頃より全然工事を中止せり

この理由書を読む限りでは、土地は全体の70%に対して起工承諾書をもらっており、そのうちの8マイル(約8km)分を高尾氏が請負って工事したということです。
全く支払ってないとか逆にすごい

単純計算ですが、つまり船橋鉄道の延長23kmのうち、16km(70%)は土地を確保、8km(35%)は工事したということになります。


実は、今回航空写真で判断した未成線跡の長さを測ると全て合わせて約9kmになります。


未成線と関係ないものを取り上げたり、取り逃していたりするでしょうし、高尾氏の請負以外が工事をしている箇所もあるでしょうから絶対とは言い切れませんが、船橋鉄道の遺構は今回紹介した区間がほぼ全てではないでしょうか。


3.さいごに

長々と船橋鉄道の未成線跡を探してきましたが、そのほとんどは戦後の開発によって失わています。
しかし、船橋市大神保町や柏市藤ヶ谷には森の中に遺構らしき土地改変の跡があることから、完全に存在が消えたわけではないといえます。

今後は図面等、より具体的な資料を見つけ出せればと思います。
現地調査はフィールドワークは城の方が好きなのでたぶんやらないです。

船橋鉄道の失効後、約9年後に開通した北総鉄道の建設に船橋鉄道の影響がどれだけあったのかを調べるのも面白いかもしれません。

おわり。

幻の船橋鉄道を探る⑤~風早・大井

船橋鉄道は川を越えられず

5回目は最後の工事区間柏市風早~大井となります。
この区間の工事された距離は長かったものの、開発によって遺構は失われています。

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1948年(USA-M738-80)を加工。国土地理院「地図・航空写真閲覧サービス」

風早の航空写真です。まだ国道16号線も県道8号線も未開通。一番下の矢印の辺りが沼南風早工業団地です。

無駄に赤矢印を置きましたが、キレイな線がわかると思います。
上2つ目の矢印の先には築堤があります。

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1948年(USA-M738-81)

写真中央が大津ヶ丘、北側が大井です。
未成線跡は弧状を描いて北に向かっており、場所によって切土工事をしている様子がうかがえます。

一番北側にある築堤で未成線跡は途切れますが、この築堤が船橋側からみて最後の遺構です。この先約3kmいくと柏駅です。

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今昔マップを加工

旧版地図にも描かれる築堤。
みての通り、船橋鉄道の築堤は大津川の手前で止まっています。ここから橋を架けるつもりだったのでしょうか。


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2019年

最後はトレース。
この区間は工業団地や住宅地として完全に開発されているため、船橋鉄道関係のものは何も無さそうです。
大津川手前の築堤も崩されてしまい跡形もありません。


最後は起終点駅であった船橋駅柏駅周辺です。
幻の船橋鉄道を探る⑥~船橋駅と柏駅 - norehero-19の日記

幻の船橋鉄道を探る④~藤ヶ谷

1.高圧電線の下に

4回目は柏市からスタートです。

柏市内は藤ヶ谷から大井にかけて工事が行われ、未成線跡が残っていました。
藤ヶ谷から大井は旧沼南町の町域内となるため、実際には旧柏市域には至らなかったといえます。


最初は藤ヶ谷周辺の航空写真から。

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1947年(USA-M871-97)国土地理院「地図・航空写真閲覧サービス」加工

航空写真の東西に通る道路は現在の県道280号線、まだ国道16号線は未開通。
北西側にある施設は米軍の白井基地(航空自衛隊下総航空基地)です。


赤矢印が未成線跡です。
道路になっていたり、掘り下げられていたりするが分かります。
下手賀川には何もなさそうです。

緑矢印の辺りも木が生えている所や地面の色が白くなっている所とかが怪しいですが、赤矢印の場所よりも不鮮明なため微妙です。
緑矢印は白井市富塚となりますが、白井村内は富塚だけ土地を確保できていたようなので工事が行われていてもおかしくはないです。


ちなみに、緑矢印のすぐそばにも林を貫く線がありますが、これは高圧電線が架かっている土地です。途中で交差もするので未成線跡を探すときにややこしいですが、現在も架かっているので比較対象にはなります。
もしかすると、この電線の下にまだ見ぬ未成線跡が眠っているのかもしれません。


2.塹壕の中に

次は藤ヶ谷から藤ヶ谷新田です。

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1947年(USA-M379-No2-116)

南側に横に通る道路は県道280号線。飛行場の誘導路もあります。

この写真で一番目立つのは、中央の築堤だと思います。水路を開けるように築かれています。おそらく築堤間は架橋する予定だったのでしょう。
この築堤ですが、1980年代には均されてしまい失われています。

他の赤矢印部も道路にもなっていて分かりやすいです。


緑矢印だけ未成線跡が途切れますが、旧版地図には描かれています。

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今昔マップを加工

左が旧版地図。どうやら道として使われていたようですが、廃れてしまったみたいです。他は地図上でもまっすぐ伸びる道路が目立ちます。

右は陰影起伏図ですが、赤矢印の部分が掘割として現在も残っています。
この掘割のある場所はサバイバルゲームのフィールドとなっており、「塹壕」として活用されています。
おそらく、未成線跡が塹壕となっているのは全世界探してもここだけではないでしょうか?


3.森林内に眠る未成線

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2019年(CKT20193-C10-20)

富塚と藤ヶ谷をトレース。
今でも一部に未成線に沿った土地割が残っており、大神保町と同じく森林内にも路盤跡が残る区間です。感覚的には下手賀川の左岸にも何か残っていそうな気がします。
築堤は無いですが、前述の「塹壕」のほか築堤南側(塹壕の対岸)にも土地の改変跡が残っています。


4.コンクリートがほしい

船橋鉄道の遺構はそのほとんどが盛土や切土ばかりでレンガやコンクリートの構造物がありません。
正直、鉄道遺構というよりも戦国期の山城です(もはや山城の方がみつけやすい

単に資金不足でそこまで工事できなかっただけだと思いますが、
工事していたとしても、全て木造だった可能性があります。

というのも、船橋鉄道の工事施工認可申請の工事方法書に

橋梁溝橋は総て木造とし営業開始後5ヶ年以内に改築に着手す

と書いています。

橋梁やボックスカルバートが木造で造られていたとして、現在にそれがどれだけ残るか…。
鉄道連隊のようにせめて橋台くらいはコンクリートで造っといてほしかった…


次回は風早・大井。
幻の船橋鉄道を探る⑤~風早・大井 - norehero-19の日記

幻の船橋鉄道を探る③~三咲・大神保町

1.謎の直線

3回目は三咲と大神保町の遺構です。
まず、1つ目は県道57号線に対して交差する直線です。地名だと三咲とみやぎ台の境目です。

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1948年(USA-M390-7)を加工。国土地理院「地図・航空写真閲覧サービス」

写真の左下でカーブしているのは鉄道連隊演習線。ちょうど三咲駅二和向台駅の間です。
矢印が重なっている道路は県道57号線、南から東に抜ける道路は県道288号線です。

中央の矢印の先に道路と交差する謎の直線がみえると思いますが、おそらくこれが船橋鉄道の遺構だと思います。どうやら道路に対して掘り下げているようにみえます。

残念ながら、この場所の土地造成は旧版地図に描かれておらず、また、年数が経つごとにこの特徴は無くなっていきます。現代では全く残っていないです。

この場所については全く情報がないので間違いかもしれません。しかし、右上に見えている大神保町の遺構と合わせるとかなり確率は高いのではないでしょうか。

2.現在も残る未成線

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1962年(MKT621-C17-7)

次は最初の写真の右上から伸びる直線の続きです。地名は船橋市大神保町です。先ほどと同じく南から東へ県道288号線が通っています。
上の矢印の南側には船橋森林霊園がある場所です。


写真は1962年ですが、免許失効から約45年以上経っても存在を確認できます。
この遺構は今も残っており、現在の陰影起伏図でも確認できます。

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今昔マップを加工

左は旧版地図、右上は陰影起伏図です。この辺りは開発されていないため、起伏図でも切土工事を行った跡を確認できます。
ちなみに、google map等の航空写真では木々が生い茂っていてよく分かりませんが、森のなかに真っ直ぐ伸びる土手が残っているそうです。

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2019年(CKT20193-C10-29)を加工

2019年の写真にトレース。
三咲側は全く現在の区画と合いませんが、大神保町側は工場の向きが未成線跡に沿っています。

3.白井村に入れず

大神保町の遺構の先は二重川が流れており、川を越えると白井市復です。
小字でいうと富ヶ沢となります。つまり、船橋鉄道の営業報告書にあった「白井村富ヶ沢に移らん」というのは、この場所まで工事を行っていたということです。

その後も工事に着手することが出来なかったのか、少なくとも航空写真では白井市内に船橋鉄道を感じさせるものはありません。
報告書を読む限り、白井市内は富塚を除いて土地の確保すらできていなかったようです。
仮に何かしらの工事があったとしても北総線などの開発で失われているか…。


次回は柏市藤ヶ谷から。
幻の船橋鉄道を探る④~藤ヶ谷 - norehero-19の日記

幻の船橋鉄道を探る②~緑台・金杉

1.2つの築堤跡

前回に引き続き、次は緑台から高杉まで。
緑台の築堤は高根町の航空写真に少し写っていましたが、遺構はさらに続いています。

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1948年(USA-M737-112)国土地理院「地図・航空写真閲覧サービス」

中央の台地が緑台(大堀)、北側が金杉です。分かりずらいが、西側から北側に向かう道路が県道288号線。

高根町のものよりも分かりやすいと思います。
2つの築堤(中央と下の矢印)を挟んで森林を縦に貫く直線があります。

金杉では線がやや右カーブをしたまま消えています(上の矢印)。
写真の北側には御滝不動があり、予定では滝不動駅が置かれる計画だったので、船橋鉄道は現在の新京成線滝不動駅と御滝不動の間を通っていたかもしれません。

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今昔マップ

この場所も旧版地図に築堤が描かれています。
地図右側の線は鉄道連隊の演習線です。新京成線が演習線の敷地を活用したのがよく分かります。

2.現代の航空写真にあらわす

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2019年(CKT20193-C11-39)を加工

2019年の航空写真に路盤跡をトレースしたものです(なんかUPミスってる)
これを見る限り、現代もしっかりと残っているのは念田川の築堤(緑台と金杉の間)のみで、道路や畑には一切痕跡がありません。

高根町の畑の中に杭とか残ってないかな…


次回は三咲・大神保町です。
幻の船橋鉄道を探る③~三咲・大神保町 - norehero-19の日記

幻の船橋鉄道を探る①~高根町

1.幻の船橋鉄道

船橋鉄道」は大正時代(1912年)、総武本線船橋駅常磐線柏駅を結ぼうと計画された鉄道です。実際に工事されましたが、社内の混乱や資金不足によって完成しないまま免許が失効してしまった「未成線」です。

船橋~柏間は現在、東武野田線が通っていますが、東武野田線が開業する10年前に計画された鉄道です。
船橋鉄道は東武野田線とは異なり、現在の北総線白井駅附近を経由するルートで計画されていました。

今回はそんな船橋鉄道の痕跡を地図や航空写真から探っていきたいと思います。

2.船橋鉄道のルート

船橋鉄道は当初、船橋駅より八栄村・鎌ケ谷村・風早村・土村・千代田村を経て豊四季村(柏駅)に至るルートを、13マイル10チェーン(約21.1km)にて申請しています。

しかし、1914年にこの案を八栄村から豊富村・白井村・風早村・千代田村を経て豊四季村に至るルートへ14マイル64チェーン(約23.8km)に距離を伸ばして変更。

当初案は東武野田線に近く、変更案はより白井よりになった形です。ちなみに東武野田線船橋~柏間は約19.6kmです。


下図は地理院地図 / GSI Maps|国土地理院を加工して作成した、船橋鉄道のおおよそのルートを示すものです。

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地理院地図を加工して作成

船橋鉄道計画時、東葛人車鉄道は存在しましたが、東武野田線は未開通です。
東葛人車鉄道の営業範囲を脅かさないように考案したのかもしれません。
なお、申請案(13マイル10チェーン)のルートはざっくり、変更案(14マイル64チェーン)は遺構の残る箇所を元にして引いています。

3.遺構を探す

航空写真に残っているのは変更後のルートです。
実際にどこまで工事されたのかについて、1915年上半期営業報告書には以下のように述べられています。

八栄村高根より漸次北方に向って進行し目下白井村富ヶ沢に移らん

つまり、1915年時点では現在の船橋市高根町から北上し、白井市復に差し掛かろうとしている所まで工事をしていた状態です。


さっそく、まずは工事開始地点の高根町から。遺構を矢印で明示。
なお、以後はすべて船橋側を起点・柏側を終点として記述します。

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1948年(USA-M871-97)国土地理院「地図・航空写真閲覧サービス」の画像データを加工。

写真の南西側が船橋駅。まだ県道8号線(船取県道)は未開通です。

宮前川に北東方面に向かう築堤(左下矢印)と掘割が残っています。また、北側の緑台側にも高根川に対する築堤(上の矢印)がみえます。

船橋鉄道の遺構は航空写真の時点で免許失効から30年以上が経過しているため、全体的に切土工事で造成された箇所が写っています。

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今昔マップを加工

旧版地図でも築堤が描かれています。しかしながら、現在は築堤があった場所のど真ん中に船取線が伸びているため、全く残っていません。


ちなみに、船橋駅周辺は土地の見当がついていただけで工事はされなかったようです。
夏見と米ヶ崎を通るルートなので、船橋駅東武野田線とは逆に東側に出て、すぐ左カーブ、海老川を渡って北東の高根へ直進…
もし完成している世界線ならば、夏見駅(船橋中央駅)ができて東葉高速鉄道との乗換駅となっていたかもしれません。
船橋駅周辺は幻の船橋鉄道を探る⑥~船橋駅と柏駅 - norehero-19の日記で。



次回は緑台から金杉まで。
幻の船橋鉄道を探る②~緑台・金杉 - norehero-19の日記

幻の銚子貨物駅を探る

1.「銚子」と「鉄道」

当ブログは千葉県の廃線未成線を中心に記事にする方針ですが、””銚子””と”鉄道””といえば、やはり銚子電気鉄道

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2001編成、2012年。2021年もまだ走ってるよ。

じゃなく、今回は幻の「銚子貨物駅」について記したいと思います。
銚子貨物駅?? 新生駅 (千葉県) - Wikipediaの間違いではないか?と、ツッコミたくなると思いますし、自分も最初そう思いました。
新生駅と「銚子貨物駅」の関係については後述します。


2.「銚子貨物駅」とは

はじめに言っておくと「銚子貨物駅」は正式名称ではないです。
駅名不明なので、便宜上当記事で勝手にそう呼んでいるだけなので、駅名が分かれば追記します…。


銚子貨物駅の初出は、戦争によって荒廃した銚子市の復興計画で登場したものです。
銚子市銚子空襲 - Wikipediaによって甚大な被害を受けましたが、
その復興都市計画において土地区画整理とともに計画されたようです。

貨物駅の計画について、『続銚子市史Ⅲ』(1983年)には下記のように記されています。

特に鉄道の改良計画を折り込んで、運輸省において銚子駅を旅客専用駅とし、新たに西方約五百メートルの地点に貨物専用駅を設置する


現在こそ銚子駅は”旅客専用駅”ですが、かつてはヤマサ醬油やヒゲタ醬油の工場へ専用線が伸びており、
さらに銚子駅北東に位置する新生駅からは銚子漁港臨港線が敷設されていた時代もありました。

取扱い貨物は醤油や魚介類の発送に対して、到着は大豆や麦類、船舶用の燃料が中心で、
おそらくはこういった貨物着発送を集約しようと計画されたと思いますが、
市史のいう「銚子駅」が新生駅の貨物扱いを含むものなのか(新生駅を廃止するものなのか)、または銚子駅の小口扱いのみを分離するものなのかは今後の調査課題です。



3.「銚子貨物駅」を航空写真から見つける

銚子貨物駅は都市計画に基づいて、1946年から用地買収と整地が行われたようですが、結局貨物駅の計画は中止となり、未成駅となってしまいます。
実際に銚子駅の”西方約五百メートル”地点で貨物駅が建設されていたのか、航空写真から探してみます。
以下、全ての航空写真は国土地理院「地図・航空写真閲覧サービス」の画像を加工しています。

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2012年、銚子(CKT20114-C17-47)

2012年の銚子。東側で銚子駅が見切れていますが、ヒゲタ醬油の工場が中心にあります。

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1952年(USA-M170-122)

次は貨物駅建設が着手されたあとの1952年です。やや回転していますが、ヒゲタ醬油と銚子駅がよく分かると思います。

ヒゲタ醬油の北側をみると、総武本線と市街地の間が開けており、さらに線路から弧状に広がる路盤を確認できると思います。地名でいうと松本町です。
駅から500m地点でもあり、これがおそらく銚子貨物駅の未成路盤です。

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同上の写真にラインを記したもの

路盤を赤くしてみました。
ただ、この路盤がイコール銚子貨物駅の構内線なのか、または駅建設に向けて一時的に本線を迂回させるための線なのかは、航空写真だけでは判断できないです。
貨物駅にしては弧状が強すぎる気もする…(駅の計画図を発見できれば…)

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1963年(MKT633-C8-40)

1963年。計画が中止されたためか、この時点で1952年のときにあった路盤は消失しており、新しい土地区画が出来ています。本線の線路に変化はありませんが、銚子駅の留置線はまだありません。

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1975年(CKT7413-C10B-13)

1975年。留置線が完成しています。よくみるとヒゲタ醬油専用線を貨物列車が走っています、DE10形?

留置線を見ていると気になるのが、道路に囲まれた土地が荒野踏切の西側(ヒゲタ醬油の北側)にも広がっていることです。1963年でも存在します。
留置線延長の為のものか、もしや貨物駅計画の名残?と考えたいところですが、現状だと妄想ですね。

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2012年に1963年を透過加工

最後に、最初の2012年写真に1952年の写真を透過させたものです。

4.幻の「銚子貨物駅」

この駅がなぜ計画中止となってしまったのか。市史には記されていないため、他文献を調べるしかありませんが、おそらく貨物量の減少や復興計画の縮小が関係あるように思えます。
また、仮に開業していたとしても、新生駅が1978年に廃止されているため、同じ運命を辿っていたでしょう。
はたして戦後すぐに計画された終着の貨物駅はどのようなものだったのか、幻想から抜け出せるよう、もう少し調べてみたいと思います。